学校だより 「広安里(カンアンリ)」 平成13年度
update 2001.5.15

巻 頭 言 教職員(保護者)のコーナー 児童生徒のコーナー
チャレンジ精神
(釜山日本人学校 校長)
新任職員挨拶 新入生歓迎のことば
日本人メジャーリーガーの活躍に思う
(釜山日本人学校 PTA会長)

4年生になっての抱負
今年の目標
中学生になって
東北アジアのハブ・ポートを目指すプサン港
(釜山日本人学校 学校運営委員長)
きゃんぷ
はじめてのキャンプ
チームワークで作った砂の芸術
体験旅行で得たもの
がんばれ、笑顔の親善大使
(釜山日本人学校 教頭)
1学期をふりかえって
(小学部1年生保護者)
よかったこと
造形大会でファフェダルを作ったこと
1学期の成長
一学期を終えて
韓国の鉄道博物館を訪ねて
(釜山日本人学校 校長)
「広安里」のクァンアンリ
9月末 2001年真夏の出来事
(釜山日本人会 会長)
「いつもと違う夏休み」 「練習の積み重ね」
リーダーとしての運動会
団長として…
10 「釜山上空400km」
(学校運営委員長)
釣三昧・花三題 かいて くらべよう
ナザレ園に行って
ナザレ園のおばあさんの笑顔
11 「読書が好きになるかも!?」
(学校運営委員)
最近思っていることをそのままに… 楽しかった三校交りゅう会
トッケビをやって感じたこと
三校交流会で得したこと
学習発表会とわたし
12 「緑の日章旗」
(学校運営委員)
世界遺産めぐり わたしがつくったカレンダー
2学期を振り返って
優秀賞をもらって
二学期を振り返って


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《 巻 頭 言 》 (平成13年5月)
日本人メジャーリーガーの活躍に思う 釜山日本人学校
PTA会長  西山佳宏
 米国メジャーリーグでイチローを始め野茂、大魔人等が大活躍であり、彼等のプレーに一喜一憂すると共に、日本での栄光を捨て、リスク覚悟で異国に渡った勇気にも感銘を覚えます。
 また、言葉のハンディ、習慣、文化の違いに戸惑いながらも、現地に融和し、かつ自己主張もする姿を見るにあたり、国際人として生きる次世代のあるべき日本人像を見るようです。
 私と日本人メジャーリーガーとの共通点を無理やり探せば、日本を離れ海外に暮らしている日本人である事と外国人の中で仕事をしている点でしょう。我が社は日本と韓国の各々半額出資会社ですが、従業員は日本人4名に対し韓国人が約700名と圧倒的に多く、韓国社会及び実業界の慣習、文化にどっぷり漬かっております。このような環境におかれますと、業務面での議論は別にして例えば会食の場合など、『取り敢えず、ビール』ではなく多勢に無勢で『取り敢えず、焼酎』となってしまいます。韓国のみならず、海外に暮らす日本人にとり異国での経験は、楽しくもあり、苦労も多々ありますが、『郷に入っては郷に従う』精神は、現地融和の観点から重要な要素の一つでありましょう。一方、自己主張の方はと考えますと、日本人社会で永く生活してきたせいか、『これは、言わなくてもわかってくれるだろう』と判断してしまい、失敗することも多々あります。
 日本人には苦手の人が多いですが『自分の考えを述べる』ことは、国際社会では当然のことなのです。

 ところで、メージャーリーガーとなり何年も経た野茂が、米国に子供を連れていっているのか知りませんが、親に帯同し韓国に暮らす日本人生徒の場合は、どのような気持ちで生活しているのでしょうか?
 日本人学校内では、日本に暮らすのと同じく日本人の先生方に日本語で授業を受け、友人とも勿論日本語で会話できる小さな日本人社会です、しかし、街に一歩出れば文字は読めない、会話も自由にならない、テレビ番組もチャンネルが限られている等々子供達なりに苦労しているはずです。
 肉体面のみならず、精神面でも一生の人格が形成される大切なこの時期に、異国での生活体験という試練をも同時に受けているのです。親のように体裁を気にして『焼酎でも良いか..』等と妥協したりせず、子供は『なぜ教科書問題が?』『韓国と北朝鮮は本当は仲が良いの悪いの?』『なぜ韓国アジュマは列に割り込むの?』等々身近なことに興味津々のはずです。
 この好奇心、知識欲に真摯に応えることが親にとり学校にとっての義務であり、本当の意味での国際人育成の第一歩なのではと考えます。机上では学べない、日本にいては学べない、自分の目で見聞きし、肌で感じた経験・知識は、個人の大きな財産となりますし、その積み重ねが国際社会の一員としての日本の力になると確信します。現在、釜山日本人学校では、韓国の
小中学校およびインターナショナル校との交流があり、子供達に貴重な機会が与えられておりますが、誠に喜ばしいことであり、是非今後とも続けて頂きたいと思っております。

 私達の子供が成人する時、日本、韓国だけでなく世界の状況は大きく変わっています。
 変化のスピードは益々早くなります。そして、将来、子供達がどの分野に進もうとも、活躍の場は日本だけに留まらず、世界がその舞台になります。この釜山の地からも、それぞれの分野で活躍する第二のイチローが多く巣立って行くことに期待すると同時に、親(チチロー)としても子供達の好奇心に真摯に応えなければならないと思う今日この頃です。

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《教職員のコーナー》 (平成13年5月)
教諭
1.韓国国内の日本映画について
 私は映画がとても好きで、日本でもよく映画館に通っていました。私にとって映画を観ている時間は、とても心が落ち着くひとときでした。韓国に来てから2年余りになりますが、おかげさまでこちらでも映画を観る時間を持つことができました。今までに観た映画(平成13年5月現在)のうちわけは、アメリカ映画が20数本、韓国映画が2本、日本映画が3本です。
 皆さんもご存知のことと思いますが、金大中大統領の文化開放政策の一環として、今まで禁止されていた日本映画が、少しずつ上映されるようになりました。特に昨年度からの「日本映画ラッシュ」には、もの凄いものがあり、今年度も月に2本のペースで上映されています。まわりの方々に聞いてみても、3年前(HANABI「馬蟹搾」が日本映画として初めて上映された頃)とは、格段の違いだそうです。「釜山フィルムフェスティバル」における日本映画の上映本数が他の国々を圧倒している状況を見ても、日本映画の人気や影響がいかに大きいかがよくわかります。
私自身、ここ韓国で「ラブレター」「鉄道員」「梟の城」などの日本映画を観ましたが、公開された日本映画に共通していることは、性的描写がほとんど無いことでした。上映するにあたり、韓国側の選考基準として、この点が大きなウェイトを占めているのではないかと思います。
 映画の「タイトル」に関してですが、日本語読みをそのままハングル語にしたものもあれば、韓国独自のタイトルをつけたものもあります。例えば、「シコふんじゃった」が「生隅託託 什乞採〜どっこいしょ、相撲部〜」に、「ラヂオの時間」が「寸陳Mr.呼亀劾球〜ようこそ、ミスター・マクドナルド〜」となっており、見ていてとても楽しいです。そう言えば、日本で上映される外国映画もタイトルが、原語タイトルと違うモノがたくさんあります。多分、日本にいる外国の方々も今の私と同じ違和感を感じていることでしょう。タイトルひとつで、その映画のイメージがだいぶ変わってしまうことを改めて感じました。
 韓国国内で日本のアニメーションを解禁にしてしまうと、韓国のアニメーション業界に大きなダメージを与えてしまう恐れがあるので、上映は相当先のことではないかという予想でしたが、意外にも早く解禁になったのことに少し驚いています。昨年の夏ごろは、ビデオ映画「人狼」と「獣兵衛忍風帳」が、昨年の12月から今年の1月にかけて「ポケット・モンスター」と「風の谷のナウシカ」が上映されました。宮崎駿さんのアニメーションは、「となりのトトロ」を代表として韓国国内でも有名ですが、上映期間は意外に短かったように思います。今回に限らず、上映期間の回転が早い(短いモノで1〜2週間)のも韓国映画事情の特徴のひとつです。見たいと思った映画は、その時に見なければ、2度目のチャンスは無いものと思ったほうがよいよいでしょう。

過去2年間,韓国にて一般公開された日本映画(平成13年5月現在)
・ラブレター・リング・リング 2・鉄道員・Shall we ダンス・ゴジラ2000・シコふんじ ゃった・ラヂオの時間・ジュブナイル・東 京日和・バースデープレゼント・トイレの花子さん・梟の城・金融腐食列島 呪縛・しあわせ家族計画・SA MURAI・死国・はつ恋 ・風の谷のナウシカ・ポケットモン スター・人狼・獣兵衛忍 風帳・サムライフィクション(釜山フィルム・フェスティバル上映作品を除く)

2.日本の映画館との違い
@ 「全席指定」…真ん中の席から売っていくので、このシステムは良いと思います。
A 「本編が終わってから5秒か10秒ほどで映写を止めてしまいます」…制作映画会社からクレームがつかないのでしょうか?
B 「アメリカ映画に関しては、上映時期のタイムラグがほとんどない」…韓国国内では終わってしまった映画の広告や予告を、家の衛星放送で見ると不思議な感覚になります。反対にヒットを見込んだ韓国映画が出ると、予定していた映画の公開日が直前にもかかわらず延期になる場合もあります。
C 「映画鑑賞記念パンフレットの販売はない」…世界中の映画事情を知っている訳ではありませんが、パンフレットを販売しているのは日本ぐらいではないかと思います。釜山総領事館の坂本さんの情報では、韓国でも以前は販売していたそうです。その代わりかどうかわかりませんが、チラシは日本に比べて凝った創りで、デザイン性も良いと思います。
D 「細かい年齢制限がなされている」…映画の内容によって細かく年齢制限があります。チケット販売所に書かれていますので、チケットを買う前に確認をしてください(韓国式の年齢で12歳から18歳まで)。
E 「先にも述べましたが、とにかく上映期間が短く回転が早い」…よほどの大ヒットでないと、採算の面も含めて日本ほど長期にわたっての上映は無理かもしれません。公開して間もないある映画を観に行ったら、その回は私1人だけということもありました。

3.日本国内の韓国映画について
日本における韓国映画も、相当の人気だそうです。「シュリ」「ユリョン」が興行収入の面でも成功を収め、今後ますます韓国映画が上映されることが予想されます。この夏の話題作としては、「JSA」「アタック・ザ・ガスステーション」だそうです。
 一昨年、日本の松竹映画会社も韓国映画界に進出し、「純愛譜(スネボ)…主演イ・ジョンジュさん、橘 実里さん」が共同製作されました。ビジネスの面において、なかなか欧米の市場に入り込めない日本映画が、日韓の交流が盛んな今を、国際舞台で勝負するための好機と考えたのではないでしょうか。

今後公開予定されいる韓国映画(平成13年5月現在)
・JSA・アタック ザ ガスステーション・THE LEGEND OF GINGKO・THE LEGEND OF GINGKO 2 燃ゆる月・ヤンガ リー ・リメンバー ミー ・時越愛 イルマーレ

4.最後に
 スポーツや音楽ばかりでなく、映画のような一般大衆娯楽の面での交流が、さらに活発になっていき、日本と韓国の関係が今後さらに良い方向に向かっていくことを願っています。反面、画面の限られた情報だけで先入観が先行してしまい、一方向的な日本人に対するイメージを持たれてしまう恐れもあるかなと少し心配もしてもいます。
 以上、私の今までの経験をもとの述べさせていただきましたが、あくまでも「専太郎的韓国映画事情」なので、情報の面で誤りがありましたら、何卒ご了承下さい。

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《児童生徒のコーナー》 (平成13年5月)
こいのぼりづくり 小学部2年 K.I
 生かつかのじかんに、こいのぼりづくりをしています。
 さいしょに、しんぶんしをつなげました。つぎに、ガムテープではって、まるめました。また、ガムテープをはって、先生が小さくきったしんぶんをみんなでガムテープが見えないように、はりました。そして、はさみでしっぽのかたちをきりとりました。あおでこいのぼりをぬりました。ぬるときに、「できたらどうなるのかな。」と、おもいました。そして、いろいろないろのうろこに、絵をかいたり、字をかいたりしました。うろこは、あしたはって、かんせいです。先生が、
「あしたで、できるかな。」
と、言いました。あしたには、かんせいしたいです。つくるのは、おもしろいです。
 きょう、やっと、かんせいしました。うろこづけを一回しっぱいしたので、また、うろこをつくりました。そして、かんせいしたのです。
 さいしょに、こいのぼりのトンネルをゆうまくんがくぐりました。みんなもくぐりました。先生もくぐりました。休みじかんに、一年生もくぐりました。おもしろかったです。
4年生になっての抱負 小学部4年 Y.T
 私は4年生になってわり算の計算をがんばりたいです。先生の話をよく聞いて、始めは分かったけど、他の勉強が入ったらすぐわすれてしまいます。だから、これからは習ったことはかならず復習しておきたいです。
 もう1つは本をたくさん読むことです。天気のいい日は外で遊ぶけど、天気の悪い日は本をたくさん読みます。
 最後はお友だちと仲よくすることです。5年生の男の子とよくケンカをしてしまうから、もっと仲よくし、ケンカしてしまったら自分から謝りたいです。
今年の目標 小学部5年 S.K
 私の一年間の目標は、いろいろな行事などに一生けん命取り組むことです。5年生になり、高学年の仲間入りをしました。高学年になるということは、責任も多くなり、たよられる方になることだと思います。それに今年は中学部が少ないので、いろいろな仕事が5・6年生にまわってくるでしょう。そういういろいろな仕事に、一生けん命取り組みたいです。
 そして今年は、私の韓国生活最後の年でもあります。だから、どんなこと、どんな行事にも真剣に、一生けん命取り組みたいです。
 この目標、守れるかどうか分かりませんが、釜山日本人学校生活最後の年、そして一生に一度しか経験できない小学5年生の一年間、いい思い出の残る楽しい一年にしたいです
中学生になって 中学部1年 Y.N
 僕は、今正直に言うと中学生になったという自覚はあまりありませんでした。何故なら、学校も変わっていないし、制服もないからです。けれども、いろいろな人から
「大変だね。」とか「がんばれ。」
と言われると、中学生になったのだからがんばらなくてはいけない気持ちになります。
 去年の中学生は人数が多く、中学部一年生は委員長や、生徒会長などにはなる必要はありませんでしたが、今年はちがいます。中学部の先輩たちが、ほとんど日本に帰ってしまい、誰にもあまえられません。案の定、後期は生徒会長になる予定で、僕に委員長が務まるだろうか、僕が英語や韓国語を話せるだろうかなどの不安でいっぱいです。更にみんなから期待されているのでとてもプレッシャーがきつく、ますます不安になります。しかし、ここであきらめたら小学生と全然変わりません。中学生になった意味がないので、同じ山なら高い山に登るつもりで最後までやり通したいです。そうすれば小学生の時には出来なかったことが出来るようになり、中学生になった自覚が持てるようになります。
というわけで、僕の中学生の目標は最後までやり通し、中学生の自覚をなるべく早く持つことです。もうひとつの目標は、小学生の手本になるような行動を取り、何にでも積極的になれる中学生になるということです。
 最後に、来年の三月に振り返ったときに、自分で納得できるような一年間にしたいです。

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《 巻 頭 言 》 (平成13年6月)
東北アジアのハブ・ポートを目指すプサン港 釜山日本人学校 学校運営委員長
柿坪 良造
プサン港の2000年度のコンテナ取扱高が、台湾の高雄を追い抜き、世界第一位のホンコン、第二位のシンガポールに次いで、世界で第三位になったことは、御存知でしょうか。トップを競うホンコンとシンガポールは、ともに年間取扱高が17,000千TEUを越え、プサンと高雄が、ともに7,000千TEU台の取扱高を競っており、プサンが高雄をわずかに抑えて世界第三位になりました。プサン港と世界の港湾との比較におけるコンテナ取扱高は、1978年には、既に11位ランクされており、その10年後の1988年には6位に上昇、1999年にはロッテルダムをおさえ4位になり、さらに、2000年には、3位へと順位を上げています。
プサン港は、東北アジアのハブ・ポートを目指して、韓国自身の輸出入貨物取扱高の増加はもちろんのこと、対日本、対中国向けの積換貨物の増加、さらには、南北統一をにらんだ中国、ロシア経由ヨーロッパ向けの内陸貨物の取扱増加を見込んで、港湾設備の整備、サービスの改善につとめているようです。

プサン港のコンテナ取扱量順位変動推移  (出所:韓国海洋水産開発院)
順位 1978 1986 1987 1988 1992 1999 2000
ロッテルダム ロッテルダム H.K H.K H.K H.K H.K
N.Y/N.J H.K ロッテルダム シンガポール シンガポール シンガポール シンガポール
H.K 高雄 高雄 ロッテルダム ロッテルダム 高雄 プサン
神戸 N.Y/N.J シンガポール 高雄 高雄 プサン 高雄
高雄 シンガポール N.Y/N.J 神戸 プサン ロッテルダム ロッテルダム
シンガポール 神戸 神戸 プサン 神戸 ロングビーチ 上海
アントワープ キールン プサン N.Y/N.J L.A 上海 L.A
キールン プサン キールン キールン ハンブルグ L.A ロングビーチ
横浜 ロングビーチ L.A L.A N.Y/N.J ハンブルグ ハンブルグ
10 ハンブルグ L.A ロングビーチ ハンブルグ キールン アントワープ アントワープ
11 プサン アントワープ ハンブルグ ロングビーチ 横浜 N.Y/N.J 深川

1957年コンテナ専用船が登場して以来、世界的にコンテナの利用が急増し、20フィートのコンテナ(1TEU)を何個取扱ったかが、港湾の貨物処理実績を比較する指標として利用されるようになりました。1969年米軍のコンテナ専用船が、初めてプサン港に寄港して以来、プサン港が韓国国内で取扱ったコンテナのシェアーは、常に90%以上を占めてきました。プサン港は、韓国を縦断する洛東江の河口から山で遮られ、水深が深く天然の良港としての条件に恵まれ、北港、南港、甘川港、多大浦港の四つの内港で構成されています。需要の増加とともに、計画的に埠頭の整備が推進されてきており、現在も拡張工事が進行中で、新たに新港建設プロジェクトが進められております。

プサン港コンテナ取扱実績 単位;千TEU   (出所:韓国海洋水産開発院)
区分 1969 1972 1978 1984 1994 2000
韓国全体 20 62 555 1214 4138 9116
内 釜山 釜山港 1 52 507 1114 3877 7541
占有率 % 7.0% 84.1% 91.4% 91.8% 93.7% 82.7%
輸入 0 28 234 424 1537 2484
輸出 1 24 273 630 1694 2551
積換 - - - 60 594 2390
沿岸 - - - - 52 116

プサン港のコンテナ処理能力は、現在、年間4,188千TEUであるにもかかわらず、1999年度の取扱実績は、6,440千TEU、2000年度の取扱実績においては7,540千TEUになっており、既に、限界に達しています。そこで、プサン市内に別途、新港を開発するプロジェクトを具体的に進めており、第一段階で2006年までに、11,000千TEUの処理能力にまで高め、最終的には2011年までに14,000千TEUの処理能力にまで高める計画です。また、プサン港への過度な集中により、コンテナ運搬のために発生する交通渋滞を解消するため、プサン近郊の道路交通網の整備も課題となっています。また、プサン港は、関税自由地域の指定、総合物流センターの整備、クルーズ観光埠頭の整備、ロンドン金属取引所の倉庫指定、船舶修理団地の造成などいろいろな新しいアイデアを実現し、真の国際物流港、東北アジアのハブ・ポートとして、新たな飛躍を期しているそうです。

このお話は、韓国海洋水産開発院 港湾研究室長の金 学韶 室長 の講演をもとに紹介させていただきました。プサン港の新たな発展を期待したいと思います。

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《教職員のコーナー》 (平成13年6月)
教諭 小松崎直美
1 ありがとう
 中学3年生の時、いつものように,清掃作業をしていたときのことである。私がひとりで廊下を拭いていると、いついらしたのか、S校長先生が、私の目の前に立ち、「ありがとう。」と、静かに一言おっしゃったのだ。瞬間、私は、なぜお礼を言われたのかが理解ができず、ましてや、普段顔をあわせることのないS校長先生に声をかけられて、どう反応したらいいのかわからず、私は、「はあ。」としか返事をすることができなかった。きょとんとしている私の気持ちを察してくださったのか、もう一度、念を押すかのように、「ありがとう。」とおっしゃっると、私の側を過ぎていかれた。これは、私が覚えている、S校長先生との唯一の思い出である。
 卒業後まもなく、S校長先生が亡くなられたことを同級生が教えてくれた。私たちの在学中から、ご自身が癌であること、また、長くはないことをご存知だったという。卒業式の前日、先生方に書いてもらったサイン帳の中のS校長先生の言葉「固き石に刻め」の意味とともに、あの日の「ありがとう」の温かさを忘れることができなくなった。

2 ダッカにて
 ネパールに行きたかった。たまたま手に入った安いチケットが、ビーマン(バングラディシュ航空)だった。そのため、バングラディシュの首都ダッカに1泊トランジットすることになった。
 他の旅行者と共に、ホテルの周りを散歩してみた。そこは、中心街からほど遠く、「観光客」らしき人物は、私たち3人だけである。ざっくばらんとした通りから見える掘っ立て小屋のような家の前で遊んでいる子どもたち。素っ裸の子もいる。路上で、もう捨ててもいいような傘を修理している老人。店の品物を盗ったらしく、主人に大声で怒られている少年。それらが、初めてみるダッカの風景だった。ふと、後ろを見ると、数人の子どもたちが、黙って私たちの後をついて来ている。(何か欲しがっているのかも知れない。)と訝しく感じた私たちは、無視をして、ずっと歩き続けた。それでも、彼らは、ずっとついて来る。だんだん、後をつけられていることが気になり始め、「何で、ついてくるのかな?」などと、話をしているうち、1人が「・・・写真、撮ってあげようか。」と言いながら、カメラを彼らに向けた。すると、とたんに、子どもたちは、にこっと笑顔を見せ、思い思いにポーズを取ったのである。そして、シャッターが押されると、満足したように帰って行ったのだ。
 あの子たちが、なぜ、私たちの後をついて回ったのか、本当のことは分からない。しかし、子どもたちが、私たちにお金や物を要求することは、全く無かったことは事実である。

3 Tさん
 久しぶりにメールを開いたら、覚えのないアドレスが1つあった。「先生、お久しぶりです。今年、希望の東京G大学に入学しました。大学は、とても楽しいです。・・・・」小学5・6年を担任をした教え子からだった。メールの送り主のTさんは、正義感、責任感が強く、成績も優秀な子だった。北海道の奥尻島で地震による被害が生じたとき、救援金を送ろうと呼びかけることもした。一方、漫画が大好きで、休み時間に、友だちと好きな漫画の話で夢中になったり、おっちょこちょいな面も見られたりする、かわいい子だった。卒業アルバムに、「将来の夢」というクラスのコーナーがある。そこに、Tさんは、「小学校の先生」と書いている。理由を聞いたら、「5年生の時、先生が、社会を一生懸命教えてくれているのを見て、なんかいいな、と思って。」と、照れくさそうに話してくれた。私もちょっと、胸の内がくすぐったくなった。
 Tさんは、その夢に確実に近づいている。
  
4  シジャンのアジュモニ
 連日、韓国のテレビニュースや特集番組で日本の歴史教科書問題が語られ、ソウルでは、大使館前でデモが行われていたというあの時期、普段は怖いもの知らずの私が、なぜか、少しではあるが、警戒心?緊張感?みたいなものが芽生え、(学校にデモ隊が押し寄せてきたら・・・。)とか、(私が日本人だとわかったら、文句言われるかも・・・。)などと心配だった。行動まで注意していたわけではないのだが、もやもやとした感じがあった。そんな時、買い物をするために、学校の近くのシジャンに行き、ふらふらっと立ち寄った“チキン屋さん”。前に立っていたら、「久しぶりにきたわね!」と、明るくアジュモニが声をかけてくれた。(何か言わなきゃ。)と、勢いで、「骨なしのフライドチキンは、できますか?」と、聞くと、「骨なしは、輸入物よ。うちのは、国産のいいもので・・・・。」と、何だか、必要以上に話してくれているような気がした。それで、うれしくなった。ほっとした。“教科書問題、気にしてないわよ。”と、言ってくれているようだったから。

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《児童生徒のコーナー》 (平成13年6月)
きゃんぷ 小学部1年
T.Y
 キャンプファイアーで 「もえろよもえろ」の うたが かなしかったです。でも キャンプファイアーが たのしかったです。5・6ねんせいの スタンツが おもしろかったです。3・4ねんせいの マジックが おもしろかったです。

S.O
 ポケットモンスターの すたんつが おもしろかったです。3・4ねんせいの すたんつが おもしろかったです。
 すきやきが おいしかったです。
 くろやま せんせいに はしる しょうまと いわれました。

Y.M
 あさごはんを つくって おもしろかったです。
 ポケットモンスターの おどりが たのしかったです。
 キャンプの ねる ことを がんばりました。

M.S
 きゃんぷふぁいあの わたしの げきが おもしろかった。
 あさごはんの さんどばあがあが おいしかった。
 にもつが おもたかったので つかれた。

S.H
 じぶんの きゃんぷふぁいあが おもしろかった。まるか ばつかが おもしろかった。うたの もえろよもえろで 1ばんは あまり もえなかったけれど 2ばんには ほんとうに もえた。
はじめてのキャンプ 小学部3年 R.S
ぼくは、キャンプに行く前日、胸がドキドキしました。「朝の集い」の進行の役だったので、きちんとできるかが心配でした。練習の時は、あまり上手にできなかったからです。キャンプを休みたいな、と思ったくらいでした。しかし、ぼくにとって始めてのキャンプだったので、勇気を出して行きました。
 朝早くから食糧の買いだしや登山などでとてもつかれていましたが、その分、お弁当はとてもおいしかったです。昼食後は、テントをはったり、料理をしたりしました。特にキャンプファイヤーでのスタンツは、とても楽しかったです。どのグループのスタンツも上手でした。ぼくたちのグループも言葉を間違わずにできて良かったです。寝るときは、せまいテントに大きい体が5人も入りました。
 そしてとうとう次の日の朝が来ました。「朝の集い」の司会はとても緊張しましたが、なんとか無事に終えることができ、ホッとしました。とても楽しかった2日間でした。来年もかならず参加したいです。
チームワークで作った砂の芸術 小学部5年 T.H
 「カーッ」
 平らな砂浜に十河先生が大きなシャベルで釜山タワーの下書きをした。思ったより大きかった。初めは時間内にこれだけのものが作れるのだろうかと思った。
 「サクッ、サクッ。」
 ぼくたちはほり始めた。最初は周りをほっていたが、ほればほるほどくずれてくるので、途中からバケツに砂を入れて他の所から運んでくる作業に変更した。バケツに砂を入れては運ぶ繰り返し。すると、作戦成功! ようやく高く
砂を積み上げることができた。
 ぼくは展望台の左側の形を整えた。整えるのは意外と難しかった。積んである砂をななめにならしながら、けずった砂を上手に固めなければならない。「展望台のところなんかかんたんだー」と思っていたけど、けっこう難しい。
 もう一つは釜山アジア大会のシンボルマスコット「ブッピー」だ。これまた「ブッピー」も意外と大きかった。ブッピーは釜山タワーの2分の1ぐらいの大きさだった。ブッピーのかんむり(かみの毛だと言う人もいる)のところに海草を使っていた。やがて釜山タワーもブッピーもできあがった。
 さあ鑑賞会だ。初めに見たのは中学部ブロックの作品だ。上の方にはドームがあった。初めは何だろうと思っていたけど、すぐにドームだと分かった。下の方には英語で「ワールドカップ」のことが書いてあった。次は1・2年生ブロックの作品だ。「海があって・・・、カモメがあって・・・、ヒラメがあって・・・」カモメの目を貝がらで作っていたり、周りを海草でかざっていたりしてとてもきれいだった。最後に3・4年生ブロックの作品を見た。作品は「ファフェダル」で、とても細かく作っていた。
 いよいよ表彰式。ぼくたちのクラスは「チームワーク賞」だった。賞状に書いてあった通り、「あーだ」「こーだ」言いながら、とても楽しかった。みんなで力を合わすことで、何もなかった砂浜に大きな作品ができあがったことは感動だった。
体験旅行で得たもの 中学部3年 A.M
今年で私にとって四度目になる体験旅行。一度目はソウル・二度目はチェジュ島・三度目はモッポの共生園へ行った。韓国に来た最初の年もソウルに行ったが、韓国と日本の歴史的背景などよく知らなかったので、戦争記念館や民族博物館へ行ったが、なんだかち〜っとも分からなくて楽しいクラス旅行のようだった。
 5年生のときまでの中学生はキャンプも体験旅行もやっていた。しかし、体験旅行でもキャンプでもリーダーとして責任を持たなければならないので負担が大きいとのことで、次の年になると体験旅行は中学部・キャンプは小学部になり、6年生のときは私は体験旅行へ行っていない。中1になっていきなり韓国最高峰の山ハンラ山に登り、中2で共生園と交流をした。
 今まで、自然・交流と来ているから今年は何か、と思っていたら、今年は1年目と同じソウルで歴史のことについて体験することになった。さすがに五年目ともなると、いろいろな所に行っているので少しは韓日関係についての知識はある(と思う)。しかし景福宮がことごとく日本軍に壊されていたり、光化門がハングルで書いてある理由などは知らなかった。だから、体験旅行へ行く前に調べたことはその時はつまらないかったが、先生の言っていたとおり、ある程度これから行くところについて知識があるとまた違った見方ができるんだと思った。景福宮では1万Wのモデルがあることは聞いたけれど、実際に目の前にしてみるとかなりの感動ものだった。西大門刑務所は前にチョナンの独立民俗博物館で見たものと似た写真が多かったので、由理子ちゃんたちのようなものすごいショックはなかったが、本当に使われた監獄や死刑台を見た時は衝撃的だった。特にポプラの木の話はとても真実みがあって不気味だった。
 1年目にも来たソウル。でも1年目とは全く違う発見や見学ができた。韓国生活最後の年、体験旅行というよりは本当に修学旅行のようで楽しかった。

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《 巻 頭 言 》 (平成13年7月)
がんばれ、笑顔の親善大使 釜山日本人学校
 教頭 今野信哉
 韓国と日本の間には、立ちはだかる大きな問題があって、急激な関係改善は望めないようです。しかし、ここ韓国で生活する子供の様子を見ていると、いつかきっと、この子供達が日本と韓国の関係をよくしてくれると、将来に明るい希望を感じました。
自分の子供の例を挙げて恐縮なのですが…、 私の家族は民楽洞のアパートに住んでいます。アパート内に公園があり、子供達は時々そこへ遊びに行っていました。初めは韓国の子供達に「一緒に遊ぼう」とか「名前は」と聞かれても意味が分からず、逆に恐怖を感じて逃げ帰って来ることがありました。その度に韓国語の分かる人に頼み、「この4月に韓国に来たのよ。仲良くしてね。」とお願いして来ました。しかし、教科書問題が表面化した辺りには「日本人は来るな・遊ぶな」とか「日本人は悪い」と罵られるようになりました。日本人学校に通う友達が「そんなの昔のことでしょう」「私たちには関係ないのだから、仲良くしましょう」と韓国語で言い返しましたが、うちの子供は、「もう韓国人は嫌い」と大泣きをして帰って来ました。
 その日はアパートの向かい部屋の方にお願いして、韓国の子供達に話して頂きました。そうしたら、その夕方には韓国の子供達がうちの玄関まで見送ってくれて、「明日は何時に遊びに来るの」とまで聞いたそうです。
 いつも公園で遊んでいる人達が同じグループとは限らず、違う人達と出会うと、また、最初から同じことの繰り返しです。しかし、うちの子供から「韓国人は嫌い」という言葉が聞かれなくなりました。多分、話せば分かることを、肌を通して感じたのに違いありません。
2つ目は、下の子供の話です。まだ小学校に入る年齢ではないため、地元の幼稚園に通わせました。その幼稚園には、日本人は一人もいません。…最初の日、行くのを嫌がってカーテンの影に隠れたり、翌日も大きな涙をぼろぼろ流しながら送迎バスに乗って行ったそうです。ちょっと悲しい思いをさせているかなと感じていました。
 幼稚園の送迎バスは、うちの前を出ると、次はちょうど日本人学校の付近で園児を乗せます。学校の前から2人、角のお菓子屋さんの所からも2人、その他に学校の裏側からも数人が乗ることを知っていました。
 先週の土曜日、一度家に帰った後に学校に忘れ物があることに気づき、子供を連れて日本人学校まで歩いて来ました。角のお菓子屋さんを曲がった所で、こちらの子数人が路上で遊んでいるのが目に入りました。すると、うちの子供が「○○や」と言って駆け出すではありませか。向こうも、笑顔で駆け寄って来ます。
 同じ幼稚園の友達だよと紹介を受け、日本人学校の校庭で一緒に遊びました。まだ3カ月しか幼稚園に通ってないのに友達もでき、一応、会話もできるのにビックリ。「○○君がね、和樺(うちの子供の名前)が大好きだから、日本人学校に行かないで韓国の学校に来てって言うんだよ」とも。
 この子が日本人学校へ上がるころには周りに友達がたくさんでき、日本人学校で一緒に遊んだり、朝にすれ違う時に手を振って挨拶するのかなと、現地の幼稚園に入れた意外な波紋にうれしくなりました。
いま韓国では、教科書問題や日本の行動に対して強い批判があがっています。もし、韓国の子供が一方的にこのような批判を聞き、 日本に対して先入観を持ってしまうのも問題だと思います。
先の話は、「日本人は悪い」と先入観ができかけた子供が、日本の子供と遊ぶことによって、友情の基礎を作り上げた例ではないでしょうか。テレビや他人からの情報で考えが固まる前の子供の時期に、韓国の子供と日本の子供が自分の感覚で(人間として)隣人を見つめ共に生活してみれば、そこから生まれるものは、好きな友達と一緒に過ごした楽しい思い出や、考えが違っていても共に幸せに過ごすために見つけた手段やその体験ではないでしょうか。
 みなさんの周りでは、きっと、もっともっとすばらしい体験が繰り広げられていることだと思います。日本人学校の子供達も、行事で校外に出かけたり、民楽の小学生と交流をしたり大活躍です。子供はその笑顔だけで、大人の何倍もの親善大使の役割をしているかも知れません。
 このような体験をした韓国の子供達が、そして、日本の子供達が、これからの望ましい日韓関係を作り上げてくれるものと期待しています。

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《保護者のコーナー》 (平成13年7月)
1学期を振り返って S.Oの母
 「キャンプでのすきやきは韓国一おいしかったよ。走る祥馬と呼ばれたよ。」
と話す息子。必死にみんなを追いかけ、和やかな雰囲気での″味″は忘れがたい大切な思い出となったようです。子どもの笑顔が多く見られる学校であることをうれしく思います。
S.Hの母
 妹に説教。
 「学校は遊ぶところじゃないんだよ。」
じゃあ、何をするところ?
 「う…ん」
考えこんだ志郎は、学校生活のなんたるかがわかってきたらしい。でも、
 「行かない」も「イヤ」
も言わない。親としては、それが一番ありがたいことである。
Y.Mの母
 ようやく1学期も終わりに近づき、夏休みが始まろうとしています。はじめは、洋介が学校生活をきちんと送れるか不安でしたが、毎日元気よく学校に通ってくれたので、心配事がなくなりました。
キャンプや水泳教室も楽しく参加することができました。先生や学校のお友だちのおかげだと思います。みなさん、ありがとうございます。
2学期もよろしくお願いします。
M.Sの母
 あこがれの釜山日本人学校。
 あこがれの学校に入学し、一年生になった美菜ちゃんは、毎日元気いっぱいに通学しています。何事にも積極的に参加し、がんばっている姿を見て、本当にうれしく思っています。
 これからも、美菜ちゃん、ガンバ!!
T.Yの父
 入学前日まで、赤ん坊のような子が、一ヶ月、二ヶ月すぎると、言葉も一言多く、自分が一人前にでもなったつもりでいるらしい。でも、学校では、先生またはみんなの言うことも聞いてくれていると(?)思います。
 今では炊事の時、少しは母の手助けをするようになりました。先が楽しみです。

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《児童生徒のコーナー》 (平成13年7月)
よかったこと 小学部2年生 Y.N
 サッカーをりょうすけくんとやったら、1年生のときは、2たい0だったり、1たい0だったりして、まけていました。でも、2年生になったら、0たい0になりました。ぼくは、サッカーがじょうずになったからよかったです。
 それから、1年生のとき、りょうすけくんとおにごっこをして、すぐつかまったんだけど、2年生になったら、さいごにつかまるようになりました。だから、足がはやくなってるということだから、よかったです。
 2年生になって、テストがほとんど百てんだったり、かん字がうまく書けたり、計算がじょうずにできたり、たんけんクイズがすすんだり、こいのぼりがかんせいしたりして、よかったです。
 こんな1学きで、よかったです。
造形大会でファフェダルを作ったこと 小学部4年 M.M
今日は造形大会当日です。いろいろ準備がありましたが、あっという間に当日になってしまいました。みんなも僕もとてもわくわくしていました。
 開会式が終わり作業を開始しました。
 まずだいたいの大きさを決めてからすなをもりはじめました。すなは、スコップに山もりにすると重くなるので、少しずつ手早くしました。みんなが協力してやったので、早め(10分近く)に2この山が完成しました。そこから僕と瑞樹君とりょうすけ君で、おかのじょうたいを作り始めました。基行君とれん君としのさんと裕加里さんがすなを持ってきてくれたのをならしました。あるていどおかのじょうたいができたので、こんどは海水をかけながら、足でかためていきました。もうそろそろという所で、1時間がけいかしてしまいました。ファフェダルの鼻を基行君、れん君、瑞樹君で作りました。ぼく、お母さん、裕加里さん、りょうすけ君で目とまゆげをほりました。そしてしのさんは、かみのけになる海草をとってきてのせました。さいごのしあげに海水をふりかけ、終わりました。
 閉会式で3,4年生は「ユーモア賞」をいただきました。
 来年も楽しくにぎやかな造形大会にしたいと思いました。
1学期の成長 小学部5年 A.M
 ぼくが1学期を振り返って、「前より成長したなぁ。」と思ったことがあります。それは、低学年に声をかけたり、注意したりできるようになったことです。また、行事の手伝いにもがんばりました。それに、授業でいろいろと習い、新しいことをたくさん覚えたり、今までできなかったことができるようになりました。つまり、いろいろな面でがんばってみて、今までできなかったことができるようになったと感じています。
 昨年は、中学生がけっこう多かったので、小学部はあまり仕事がなかったようでした。今年は人数も減り、ぼくも5年生になったので、責任のある仕事が増え、たいへんでした。
しかし、力を合わせてすると、すぐにできたり、大きなものも作り上げていくことができたりすることが分かりました。
 授業では、思っていたよりどんどん難しくなっているので、とてもたいへんです。中学生になるともっとたいへんそうなので、今からがんばりたいです。
 この頃テコンドを習っているせいか、一回も授業を休んだことがありません。それに体が大きくなってきました。毎日運動すると疲れますが、夏休みもがんばって通おうと思います。
 2学期はものすごく忙しくなりますが、行事でも勉強でも自分のできることをせいいっぱいやって、どんどん成長していきたです。
一学期を終えて   中学部1年 Y.Y
 一学期は、中間・学力・期末試験や体験旅行などのいろいろな行事があって、中学一年生になりたてのわたしには、少しハードな四ヶ月間でした。なぜなら中学部は、試験勉強をやりながら、行事などの時は上級生として下級生をリードしていかなければならなかったからです(リードできたかどうかは別としてですが)。
 わたしは、小学校のとき算数が苦手でした。でも数学のテストは、中間・期末の両方で高い点が取れ、
「わたしも、やればできるんだ。」
と思いました。そこで、わたしの今後の目標は『学習に集中すること』に決めました。試験勉強の時、どうしてもテレビの誘惑に負けてしまい、学習時間が少なくなってしまっていたので、がまんできるようにしたいです。そうすれば、早く寝れるし、朝もつらい思いをせずに起きることができるので一石二鳥です。先輩達は、それを難なくこなしていたかと思うと、すごいなあと感心します。それで、二学期はちゃんとけじめをつけて、先輩達に一歩でも近づけたらいいなあと思っています。
 それから、夏休みはなまけず、遊びすぎないようにしたいです。一日最低でも三時間は勉強して、夏休みあけに後悔しないようにしたいと思います。あと、わたしは夜ふかしをして朝起きるのが遅くなることがあるので、規則正しい生活が送れるように努力したいと思います。

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《 巻 頭 言 》 (平成13年9月)
韓国の鉄道博物館を訪ねて 日本人学校長  菊田 藤明
 これまでに何度か経歴書を作成することがあり、その中によく趣味・特技の欄があります。私の場合は、これといった特技もなく、趣味といえるほどその道を極めたものもなく、いつも記入に苦労する部分です。しかし、結婚して車に乗るようになってからはドライブと書くことが出来るようになり、その後、45歳頃から始めたゴルフが次に加わりました。
 それ以外に、もう一つ幼い頃から鉄道に関して趣味をもっています。平成12年度4月号の「広安里」の中で、「親子の共通体験」というタイトルで原稿を掲載し、その中で、私の趣味の一つである鉄道模型のことを一部紹介した事があります。しかし、鉄道に関する事は、趣味といえる程のものではなく、まだ興味の段階程度のことで、組み立てキットを購入して蒸気機関車を組み立てたり、京都の梅小路や東京にある博物館を見学したりしたぐらいです。韓国への赴任にあたって、機会があれば列車に乗ったり、鉄道関係の博物館を訪ねたいと思っていました。しかしながら、赴任前に数種のガイドブックを調べましたが鉄道に関する情報はありませんでした。こちらに赴任して、学校にある古いガイドブックに韓国の鉄道博物館の情報が掲載されているのを見つけて、機会があれば訪ねてみたいと常々思っていました。その機会が今回の夏休みに実現しました。
 韓国鉄道博物館は、ソウル地下鉄1号線に乗って水原に向かい、水原の手前2〜3駅に富谷駅があり、その近くにあります。富谷駅で降りたら、水原方面に線路沿いを約15分程歩くと鉄道博物館とハングル文字で書かれた看板や野外展示してある車両が見えてきます。入館料を払って中を見学しましたが、気持ちは子供が珍しい物を見るのと同じように、ワクワクしていました。入口左には蒸気機関車・ディーゼル車・客車等が屋外展示してあり、早速ビデオで撮影したり、写真を撮ったりしました。入口正面には立派な博物館の建物があります。館内に入るとまず目にはいるのが、かなり大きな蒸気機関車の模型です。館内には、その外韓国の鉄道の歴史に関する資料・鉄道模型・鉄道の施設設備に関する資料等の展示がありました。また、1階には鉄道模型を走らせるコーナーもあり、昼と夜の雰囲気を出しながら、係の人が列車の名前を説明しながらムグンファ号やセマウル号の模型の列車を走らせてくれました。私は年甲斐もなく最前列に座って、我を忘れて模型の列車が走っている様子を見入っていました。
 子供が何かに無我夢中になっていると、周囲から声を掛けても反応しないことがよくありますが、今回、鉄道博物館を訪れて見学している時の私の状態は正にそのようなもので、時間が経つのも忘れて展示品の数々に見入っていました。物事に感動する心は年を経るごとに薄れるような気がしていますが、鉄道博物館は私に感動する心を目覚めさせてくれたような気がします。
 韓国でもソウル・釜山間を高速鉄道で結ぶ工事が進んでいます。列車はフランス国鉄のTGVの技術を導入して作成されるそうで、大邱までは専用の線路を使い、釜山までは一般の線路で来る計画のようです。最近、釜山鎮駅付近は電化のための工事が行われています。開通がいつになるのかはっきりしませんが、開通したら一度乗ってみたいと思っています。下記に鉄道博物館の案内を記載しました。興味のある方は、一度訪ねてみてください。

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《教職員のコーナー》 (平成13年9月)
「広安里」のクァンアンリ 教諭 吉田 隆雄
 「どんなところに住んでいるの。」と、日本に住んでいる知人に聞かれると、「湘南と熱海の海をたして、3(?)で割ったような所だよ。」と、答えています。その後に、「まだ、一回も泳いでないんだよ。」とつけ加えると、「えっー。」という答えが、返ってくることもしばしばありました。
 「いつでも行けるや。」と思うと、なかなか行けない(行かない)、ということがよくあります。「行こう。」と意識しすぎるのも堅苦しくて、いやだし、なんて思案していると、腰を上げるのが億劫になってしまい、結局何もしないで、終わってしまいがちです。
 日本に住んでいるときには、夏休みに入る前にすでに日焼けして、真っ黒で、休みに入ると、水泳指導もあって、皮膚に湿疹ができるほど焦げるような日焼けをしていました。そのために、2年に一度くらいは、皮膚科の世話になっていたぐらいです。
 ところが、海の近くにいざ住居を構えた(1999年4月)ここでは、紫外線を全身に浴びる機会から遠ざかっていました。(そのおかげで、シミやほくろがそんなに増えなかったという利点もありますが…)
 ここに来た当初は、「水があまりきれいじゃないよ。」「泳ぐ気がしない。」などの話を聞いていました。そうこうしているうちに、2度の夏が過ぎ、3度目の夏をここ釜山で迎えました。
 わたしが、生まれたときからここに来るまで住んでいたのは、東京です。東京で、海水浴といえば、子どもの頃から三浦半島や片瀬江ノ島(どちらも神奈川県)、内房・外房(千葉県)方面に出かけていました。ということは、そんなに水がきれいな場所で泳いでいたわけではないのです。そう、水のきれいさということと、海水浴とは、あまり関係がないことに、あらためて気づいたのです。
 今年の夏、7月の終わり頃に、満を持して(?)「いざ、クァンアンリへ」を合い言葉に1歳半の子どもをベビーカーに乗せ、海に繰り出しました。午前中は、紫外線が強いので、午後2時を過ぎると、アパートから一番近い6番の監視台のそばで、シートを広げて、海水浴を楽しみました。何せ、家から歩いていける距離なので、シャワーは、家に帰ってから浴びることができ、プライベートビーチのような感じさえします。
 昨年、曇り空の夏のある日、半年を過ぎたばかりの子どもを連れて、家族で松亭ビーチにでかけました。あまり天気もよくなならず、海岸にシートを広げて、「さあ、寝っ転がろうか。」と思ったら、30分もしないうちに、うちのボウズが、お漏らしをしてしまい、即「てっしゅう!!」ということになってしまったのです。はかなくも、そこで、わが家の昨年の海水浴シーズンは終わってしまったのです。松亭からだと、アパートのある南川洞まで、タクシーを飛ばしてもかなりの距離があるので、さんざんな思いをした苦い経験がありました。
 そんな反省から、今年の4月から「クァンアンリで泳ごう。」と、学校の行き帰り、たびたび思っていました。そして、それを実行に移したのです。幸い、うちのボウズは、海が好きで、水も怖がらないようなので、充分に海水浴を楽しむことができました。何回か、日本人学校の児童、保護者とも遭遇し(うちは、だいたい同じ場所にいるので…)、笑顔で、あいさつを交わした夏休みでした。

 昨年、クァンアンリのロッテリアの隣りにマリンスポーツのショップ(ウインドサーフィンの会員になっている家庭もありますが…)がオープンしたので、タンクとウェイトを借りる条件がそろいました。
 この秋に、「いつかは…」と心に秘めていた、クァンアンリに潜ろうと思っています。アパートの脇の海の中はどうなっているか、どんな生き物や魚が泳いでいるのかを見てみたいと思っています。そのために、業者を待たせて時間稼ぎをして、引越荷物の中に機材をあわてて詰め込んできたのですから…。

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《児童生徒のコーナー》 (平成13年9月)

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《 巻 頭 言 》 (平成13年9月末)
2001年真夏の出来事 釜山日本人会長 平井 厚
8月10日の釜山日本人会理事会で、会長という重責を拝命いたしました。会員の皆様には引続き日本人会に対するご支援をよろしくお願い申しあげます。さて、今年の夏を皆様どのように過ごされたのでしょうか。私にとっては、勤め先の組織改正から日本人会長の拝命、そして少なくとも以下のような出来事があって、21世紀最初の印象深い夏となりました。
1. 夏の始まり/ 旧知の大先輩来釜
6月8日、釜山生まれで現在大阪府池田市在住、勤め先の大先輩E氏が釜山を訪問しました。E氏と職場をご一緒したのは20年近くも前ですが、来釜の度にお声をかけていただきます。今夏、私は夕食の席にその日池田市の小学校で起きた恐ろしいニュースの一報を届けることになりました。(なお、8月28日開催の学校運営委員会で、釜山日本人学校にも安全対策が施される旨、校長先生から報告がありました。)とても暗い事件の夜でしたが、70才代後半に達したE氏は釜山在住の旧友と親子二代にわたる親睦を図り、釜山に対する愛情を次の言葉で締めくくりました。「ふるさと釜山は、いくつになってもいつ来ても懐かしい。」
2. 土地に対する愛情
7月13日、日本でも有数の温泉地O県で、勤め先のH氏の定年退職慰労会に出席しました。集まったのは8年前にO県に支店を開設した際に様々な苦労を共にした仲間達で、私を含めた参加者は一様にO県という土地に対して今も変らぬ愛情を抱いています。後日H氏からお礼の葉書が届きました。「わずか3年半程の間でしたが、一つの支店を立ち上げたという一体感がそうさせるのか、いわば創業者同士、こんなに気持ちがしっくりする仲間はいません。」
3. IMF卒業と創業者
8月23日、韓国は3年8ヶ月ぶりにIMF管理体制から卒業、1997年12月にIMFから借入した195億jの残金1億4千万jを予定を繰り上げて返済することになり、金大中大統領ご夫妻も出席された記念行事が開催されました。経済危機の際、韓国の外貨保有高は78億jまで減少、現在は970億jまで回復しました。ただ、韓国経済の先行きも楽観できるものではなく、8月19日、財政経済部は今年の経済成長率が2%台に止まる可能性もあると発表、8月23日の朝鮮日報紙は、「大宇と現代など超大型の不良企業もそのまま残っている状態」と報じました。大宇や現代の凋落の一因は、最近まで創業者が健在であった旧態依然とした同族経営の実態にあると私は思っていました。
4. 同族企業
ところが8月に読んだある経済誌は、世界の有力企業「フォーチュン500」の37%は同族企業で、「同族企業では事業に対する関心度が高く、それがしばしば長期的な思考を支える役目をしている」、「短期的な利益追求を超えた目標を持っている企業が健全な収益を生み出すことが多い」など、同族企業が一概に悪いとはいえないと指摘しています。
5. 健全な収益を生み出す
8月24日、ある社団法人の派遣団として来釜した勤め先の前社長一行と釜山日本人会理事とが懇談する機会がありました。この前社長は長期的に健全な収益を生み出すために、1998年6月、私の勤め先のあるリストラを果敢に断行しました。この席で社団法人が発行した韓国情勢に関する報告書が配布され、今夏の日韓のいくつかの問題について、最近の年間350万人という日韓往来の急速な拡大に触れて次のようなコメントがありました。「むしろ長い目で見れば、国民交流がこういった問題を小さくしていくだろう。」
6. 夏の終り/ 国民交流
私の勤め先では、毎年夏に海外の学生を日本に派遣するスカラーシッププログラムを実施しています。スカラー選抜試験で強く感じたことは、日本語を学ぶ釜山の大学生の日本に対する造詣の深さと表現の豊かさです。辞書の持込みのみ許される日本語エッセィ試験でスカラーのひとりは次のように記して、まるでサリンジャーかカポーティかと私は腰を抜かさんばかりに驚きました。「フランス文学にちょっと関心があった私はエミールゾラがどんな格好をしているのかを見るためにマネの絵を探した。(中略)私の眼差しが止まったのは人物の後の背景だった。その背景には私の国の花鳥画と似ている屏風と着物を着た昔の日本の男の絵が描かれ(中略)。その背景が私の思春期を終らせ別の世界に初めの一歩を踏み出す方向を提示してくれる道標になった。私の胸にもマネの印象派の画家たちが熱病みたいに患っていた浮世絵シンドロームが根づき始めていたのだ。日本はそういうふうに私に初対面の挨拶をした(原文のまま)」。8月も下旬、夏の終りに近づいた頃、派遣した学生が帰国報告で私を訪ね、日本での体験を語ってくれました。スカラー達が日本で最も印象に残ったこと、それは他でもないK市におけるホームステイを通じた浴衣の国民交流だったのです。

E氏の来釜で始まった記録的な猛暑の今夏も、釜山に住む日本人会の一員としての私に様々な真夏の夢花火、夏模様を描いて見せてくれました。9月11日、この原稿を書き終えた日の夜(韓国時間)、米国で同時多発テロが発生、「印象深い」夏の終りの後に、今年の秋は長い戦争を予感させる極めて衝撃的なスタートを切りました。

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《教職員のコーナー》 (平成13年9月末)
「いつもと違う夏休み」 教諭 小野寺 英一
 今年の夏休みはいつもと違いました。
 例年の夏休み。防具を付けて県大会に向けて一心不乱に生徒と剣を交える有様は、暑い夏を一層熱く駆り立てます。そのお陰で怠け者の自分も、何とかリズムのある生活が送れます。一緒につきあわされる部員はたまったものではなかったでしょう。今更ながらつきあってくれた英雄達に頭が下がります。中総体が一段落した8月中旬からは、灼熱にじっとがまんして力走する駅伝軍団と、白いユニフォームを着ているからかろうじて人間だと確認できるほど真っ黒になった野球部監督、及び部員に刺激を受けながら、体育祭に向けての応援の作戦会議で2学期に備えます。そして正に休みぼけを吹き飛ばすかのような、残暑厳しい中での体育祭練習で始まる2学期。あの残暑厳しい中での気合のこもった練習が快感でした。
今年は異国での夏休みでいかなる事かと不安でしたが、たまたま原籍校所在地区で毎年実施している韓国交流会一行が来ることになりました。私が現在お世話になっている釜山の剣道教室との交流をしたいということで、剣道に関わる仕事ができ、恩師にも会えてとても有意義でした。また、休み明け直前に「運動会の応援どうしますか」と期待と不安を抱いて相談に来た中学1年生の意気込みにふれ、一見大きな違いはなかったのです。
 子供や学校を離れて自己研修を問われる今年の休み、自分自身を振り返る時間になりました。多くの出来事や人々が脳裏をよぎりました。特に、ある一報により、最もくり返し思い出されたのは、一昨年初めて東北中総体に男子団体で出場できた時のことです。校長先生の横断幕に始まり、多くの先生方の励ましを頂きました。そんな中、特に忘れられない出来事があります。
 東北大会の会場は学校から車で4時間かかる秋田県でした。にもかかわらず、大会当日、わざわざ足を運んでくださった一家族がおりました。当時の副将を努めた生徒の担任(3年3組)の先生のご家族です。その時点で3年1組担任の私と、3年2組担任の剣道部女子の顧問と3年生の担任が全員そろったわけです。副将にとってはさぞかし、力強いことだったでしょう。わざわざ遠方までのご足労に感謝すると、奥様が岩手のご出身ということで、ご実家に滞在するついでにとおっしゃっていました。しかし岩手から秋田までも相当の道のり、せっかくの実家でのひとときを楽しんでいたのに、奥様がよくご了解してくれたものだと、ご主人様やその教え子たちへの心遣いに感謝したものでした。かわいらしい女の子2人が一緒でしたが、暑い会場でさらに蒸し暑くなる剣道を見ても辛いだけだったろうにと、今更ながらふり返ります。その甲斐あって、今まで調子を出し切れなかった3年3組の副将が大活躍し、東北大会初出場にして、予選突破を実現してくれました。
子供たちの可能性は図り知れません。しかしその陰にはやはり生徒のことを考えて、東北大会へ応援に駆けつけるという力があってこそ、その可能性が現実のものになると実感しました。さらにその力を支える家族の理解や協力が不可欠であることを改めて感じました。
 今年の夏休みがいつもと大きく違ったのは、このとき一緒に応援に駆けつけてくれた、先生の奥様がこの7月12日に逝去されたとの知らせを受けたからです。長く厳しい闘病生活の末だったそうです。素敵な奥様であり、お母さんであり、そして生徒の心に入り込む素晴らしい美術の教師だったと聞いております。その直前まで病床で我が子たちと絵を描いていたそうです。
 秋田で拝見した奥様の優しい笑顔。あの笑顔は家族はもちろん、教え子たちそして我々仲間の心に永遠に生き続けることでしょう。新しい形で、多くの方々の力となってくれている奥様に心より感謝申し上げます。

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《児童生徒のコーナー》 (平成13年9月末)
「練習の積み重ね」 小学部3年 S.K
 運動会に向けて、赤組・白組それぞれ一生懸命練習を重ねました。その中でも私にとってうまくいかなかったものは、「リレー」でした。バトンをわたすとき落としてしまったり、次の人を通り過ぎてしまったりといろいろな間違いをしてしまいました。しかし練習のかいがあり、予行練習では上手にバトンを渡すことができました。
 紅白に分かれての練習でもリレーの練習を何回か行いました。校庭が小さいせいもあってかカーブのところが気になりましたが、ももあげなどの練習で足を鍛えて頑張って走りました。
 よく先生に「練習しないでは勝てないぞ」と言われました。その言葉を大切にして毎日もも上げの練習をしました。「運動会当日はリレーで決めるぞ」と思い、前日までがんばりました。
晴天の9月23日、民安小学校での運動会が行われました。いろいろな種目が終わり、最後の種目「紅白対抗リレー」になりました。ピストルの合図でいっせいにスタート。バトンが次々とわたっていきました。いよいよ私の番になり、全力で走りました。次の人へのバトンも上手にわたすことができました。結果わずかな差でしたが、勝つことができました。私は、これが練習の成果だと思いました。
リーダーとしての運動会 小学部5年 H.T
 私が運動会の中で一番気分がよかったのは、「障害物借り物競走」です。この種目は、まず、スプーン競走、次にげたポックリ、そしてチューブくぐり、最後にカードに書いている借り物を持ってゴールまで行くというものです。
 この競技の中で、私が一番楽だと思ったのは、スプーン競走です。私は以前テニスの練習で、スプーン競走をしていたからだと思います。逆に、一番たいへんだと思ったのはチューブくぐりです。体も大きいし、しかも太っているのでとてもたいへんなのです。三つの障害をクリアして、カードを取ってみると、そこには「カセットテープ」と書かれていました。「カセットテープを持っている人はいませんか。」と聞くと、教頭先生が貸してくれて、なんとか二位になれました。
 私が一番ドキドキしたのは、紅白対抗リレーです。祐太君がいないあなをうめるために黒山姉弟が一周ずつ、ほかの人は半周ずつ走りました。瑞樹君が走ってきます。
「ゴー!」
私は走り出し、バトンを受け取りました。相手は洋君です。私は思いっきり走りました。そしてなんとかあまり差を付けられずに次の走者のさくらちゃんにバトンを回しました。さくらちゃんは一周走りました。相手は半周は佑美香さん、半周は由理子さんで、抜きつ抜かれつ走っていました。アンカーの知之君にバトンが回りました。相手の赤組との差はほとんどありません。知之君も一生懸命走ります。
「パーン!」
と、ゴールの鉄砲の音が響きました。先にゴールをしたのは赤組でした。白組のみんなは悔しくて泣いていました。
 私は今年初めて応援リーダーになりました。初めリーダーになると聞いて驚きました。しかし、上級生なので、自分のできる限りのことをしようとがんばりました。練習の段階では、速くおべんとうを食べて集合しなければなりません。踊りやかけ声も考えて、おぼえなければなりません。そして、低学年の子に教えるという苦労もありました。
 しかし、リーダーをしたおかげで、本番では大声を出して叫びまくりました。
「イケイケー。イケイケー。」
少しのどが痛くなりました。しかし、「リーダーなんだからやらなきゃ。」という思いでいっぱいでがんばりました。踊りもうまくいき、終わった時には大きな拍手をもらいました。  
もうひとつ今回の運動会では初めての体験がありました。それは放送の仕事です。実況中継で言うことが分からず、とても苦労しました。その時さくらちゃんのお母さんが、いろいろとアドバイスをしてくれたので助かりました。
 私が家に帰ったとき、お母さんが、
「白組の応援、とってもよかったよ。」
と言ってくれたのでうれしかったです。お父さんは、
「弘実はリレーで洋君にすごくはなされると思ったけど、そんなにはなされなくてすごかったね。」
と言ってくれました。
私にとって今年の運動会は、大切な役割を初めてやってドキドキした運動会でしたが、そのおかげで、去年よりも思いっきり力が出せた運動会になったと思います。
 来年こそは勝ちたいです。
団長として… 中学部3年 A.M
 応援はちまきナンバー1は団長のナンバー。私が中1のときから始まった、この応援はちまき。一般用のものはあったけれど、応援専用にはなかった。
 中1のころ、ナンバー1がうらやましかった。
「かっこいい。」ただ、それだけ。中2のころ、全体の中心の1人として動くようになった。そのときナンバー1のはちまきには「もらう団長さんは大変だ。」としか思わなかった。しかし、ついに私自身が団長となり、ナンバー1はちまきをもらったときには、”重い。”そう感じた。はじめてもらったのが予行練習で、しかもバタバタしていたのにそう感じた。そしてその感じは家に帰ってからや、日をおうにつれて大きくなった。そのはちまきから感じる運動会の存在感。それがなんだか分からないまま、日にちだけが過ぎていった。
 本番5日前。やっとそれがなんだか分かった。”プレッシャー”これが「運動会」から感じる存在感の正体だった。私はもう5年目。いろんな団長を知っている。誰も立派な人だった。その人たちに応えるため、今の生徒達の期待に応えるため、どちらにしても私には大きすぎるプレッシャーだった。
 十河先生が相手というのも不安要素の一つだった。今年も応援合戦はお祭りでせめることは知っていたし、とにかくスピードをつけてくると思ったので、圧倒されないよう、こちらも気を使った。
ある程度応援も軌道に乗り、予行演習が終わってからが一番大変だった。予行はおそらく赤組が勝ったと思う。その勝ったぞムードをこわし、いかに本番まで低学年に緊張感と危機感を持たせるか。そして当日目の当たりにした白組応援、はっきり言ってすごくかっこよかった。でも、こっちだって負けてない!そういった気持ちを低学年に持たせられるか、それはやはり、団長や中学生の手腕にかかっていると思った。私自身も苦しかった。多少なりと白組に圧倒されていたし、走りも速くないので、自信がなかった。でも、団長の私が弱くなれば赤組が弱くなる。たとえみかけだおしでも強く立っていなければならない。赤組を引っ張っていく。飽きっぽい私にとって、この責任を投げ出さず、思いを持ち続けることが一番つらかった。
 そのおかげなのか、運なのか、幸いにも赤組は優勝した。決まったときはまずホッとした。頼りない団長だった分、小5,6や由理子さんには大変迷惑をかけてしまった。協力してくれてありがとう。
 赤組のみんな、みんなのがんばりのおかげで、優勝カップを手にすることができました。本当にありがとう。

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《 巻 頭 言 》 (平成13年10月)
「釜山上空400km」 学校運営委員長   小山 正文
 これを書いている10月半ば、1人のアメリカ人と2人のロシア人が、地上約400kmの上空を、秒速約7.7kmで飛行し、90分で地球を一周する軌道上で生活しています。その軌道は、現在釜山付近の上空を通過しています。
 8月11日、ジョンソン宇宙センターからスペースシャトル・ディスカバリー号で飛び立ったフランク・カルバートソン、ウラディミール・ジェジューロフ、ミハイル・チューリンの3人は、国際宇宙ステーション(ISS)の第3次滞在クルーとして、4ヶ月間宇宙に滞在する予定です。日本も参加しているこのISSは、1998年11月20日の最初のモジュール「ザーリャ」の打上げから始めて、40数回モジュールを打上げ、2006年の完成を目指しています。日本の実験モジュール「きぼう」は、2004年から2005年にかけて打ち上げられる計画です。
 1968年に公開された映画「2001年宇宙の旅」。ヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」の曲に乗せて、宇宙船が、ゆっくりと回転する宇宙ステーションに向かう壮大で華麗な映像に驚嘆した人は多かったと思いますが、その2001年になった今年、宇宙飛行士達の船外活動の様子や、モジュールの組み立てのニュースを見ていると、作者のアーサーC.クラークが描いた未来がそこまで迫ってきているという思いに何となく気分が高揚します。釜山からも、天気さえよければ、北の空にISSの光を肉眼で見ることができるかもしれません。
 一方、1968年の翌年、1969年7月20日、アポロ11号の月面着陸を見ながら、宇宙へのあこがれを抑えきれずにいた28歳の青年デニスは、32年後の今年、その夢をかなえて人類初の宇宙旅行者となりました。一度はNASAの技師となったものの、道を変えて投資アドバイザーとして大成功したデニス・ティトー氏は、今年60歳にして少年の頃からの夢を自らの力でかなえ、4月28日、ロシアのソユーズ宇宙船に搭乗し宇宙の旅に出発しました。8日間の宇宙旅行を終えてカザフスタンに着陸した彼は、「完璧だった。楽園だった。」「(自分は)幸せな奴だ。とってもハッピーだ。」と、その満足感を語ったそうです。
 やれ旅行にしてはかかった費用が高すぎるとか、NASAは反対だったとか、彼の周辺は騒がしかったようですが、事前の1年以上に及ぶ地上での訓練を始め、お金以外の彼の努力と苦労は並大抵のものではなかったはずで、夢の実現にかけたデニス・ティトー氏の執念に圧倒的多数の支持が集まるのは当然と言えないでしょうか。
 こんなことを考えていると、地上で吹いている不景気風の冷たさも少し和らぐ思いがします。しかし、9月11日、地上、ニューヨーク、マンハッタン島の南端。そこで起ったテロ事件とそれに続く米英の報復爆撃の報道は、決して楽観的な未来ばかりではないことを世界に思い知らしめました。テロの被害の甚大さ、悲惨さには胸の潰れる思いですが、これに対抗して始まった空爆でも既に民間人に被害が及んでいるようです。上空400kmでの科学の粋を集めた国際協力と地上での大規模テロ・戦闘の間の大きなギャップ。改めて人間同士が相互に理解し合うことの難しさを痛感します。
 とは言え、相互理解の第一章が言葉であるとすれば、隗より始めよ、の通り、まずは韓国語の勉強に精を出したいと思う今日この頃です。

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《教職員のコーナー》 (平成13年10月)
釣三昧・花三題 教諭  十河 聖司

 「あなたの趣味は?」と問われて、「う〜む」と首をひねる方も多いだろうが、私もその一人だ。ないことはないものの、そのどれもが中途半端なもので、「これぞ私の趣味!」と胸を張って言い切れるだけの専門的な知識もなければ、こだわりもないからだ。しかし、強いて言えば「海釣り」と「庭いじり」を挙げることができる。
 まだ小学校に上がる前に、父に連れられてよく池や川に釣りに連れて行ってもらった記憶がある。竹に漆を塗った継ぎ竿は、唯一の父の形見として実家に残してある。
 さて、海釣りの方はと言うと、就職してから通うようになった。きっかけは自分でもはっきりしないが、幼い頃の血が騒ぎだしたのか、気が付いたときには、妻も眉をひそめる釣り好きになっていた。春のイカに始まり、夏のキス、秋にはチヌ(黒鯛)、寒風が頬をつく頃にはカレイ…と、一年中隙を見ては海に通う。月刊の釣り雑誌を毎月隈無く読み、そこに掲載されている太公望の写真に自分を重ねては、ニヤリニヤリとしているのである。
 特にチヌのシーズンには、常に自家用車に竿一式を忍ばせておいて、学校からの帰り道、自宅とはほど遠い方角へ寄り道する。はやる気持ちを抑えつつも、かねてから目星をつけておいたポイントへ。そんな時に限って、爆釣の憂き目にあい、せっかくの収穫も、隣で糸を垂れる顔見知りのおじさんのクーラーに収納されるのである。何食わぬ顔で帰宅をするものの、潮の香りは正直に万事を妻に報告する。
 赴任直後の5月、連休を利用して釜山爆釣クラブの仲間と巨済島方面へ磯釣りに出かけた。韓国での初めての磯釣り。あいにくの天候が幸いしてか、38cm前後の黒鯛(自己最高記録)が2枚も釣れた。この釣果に釣り宿のアジョシも喜び、「ぜひ写真を雑誌社に送れ。」と言う。有頂天になる反面、黒鯛を両手にうれしそうな顔して雑誌に載った暁には、「十河、お前は何しに釜山へ行ったかっ!すぐ帰って来い!」とお叱りの声が聞こえてきそうで、辞退させていただいた。今思えば惜しいことをした。
 去年の実績では、もうそろそろ釜山近辺で鯖や鰆が釣れる頃。「そぞろ神の物につきて心をくるわせ」るシーズンになってきた。
 もう一つの趣味に「庭いじり」がある。これもキャリアは短く、数年前に清水の舞台から二回転半ひねりで飛び降りるつもりでマイホームなるものを購入した時から始まる。猫の額ほどの…と言えば猫に失礼なほどの隙間に、玉砂利を敷いたり、ブロックや枕木で囲いを作ったり、挙げ句の果てには獅子おどしを自作してみたりとガーデニングとやらの真似事を始めた。部活動の練習もなく、さしたる釣果も望めないような休日は、朝から暗くなるまで、園芸図鑑片手に例の隙間でゴソゴソやっている。道行く人も、時折声を掛けてくださり、花の話に花が咲き、時には苗を届けて下さる方もいる。育てる花も山野草から洋ランまで、節操がないものの、一鉢、一株に愛着があり、灌水もままならないほどの数にふくれあがってしまった。釜山に赴任する前の2年ほどは、物好きが高じて、庭造りの専門家の後について、他人様のお庭を作るお手伝いまでさせていただき、自分の庭ができたような錯覚を楽しんでいる。
 私の花作りの楽しみは、美しく咲きそろった花を愛でるときよりも、土作りから始まって、苗の植え付け、摘心、害虫の駆除など、咲きそろった姿を想い描きながら育てている時間だ。

 楽しみは 朝起きい出て 昨日まで
     なかりし花の 咲ける見るとき
 全国中学生大会を制した青森県のバドミントン部の監督さんから教えていただいた歌だが、まさにこの心境である。昨日の朝までは、たしかに土しか見えなかった所がほんの少し持ち上がり、辺りをうかがうようにかすかに芽が顔を出している。小枝の先に小さな小さなまだまだ固いつぼみを発見する。寒さに固く身を閉ざしていたつぼみにうっすらと色が浮かび始める。こんな変化を見つけたときの喜びはこの上ない。この喜びと同じ感動を、日々の学校で出会う子どもたちの姿からいただくことがある。

 花を支える枝 枝を支える幹 幹を支える根 根はみえねんだなあ (相田みつを)
10月もこの時期になると、日本の種苗店の店先には色とりどりのパンジーやプリムラ、クリサンセマムの苗が並ぶ。この見栄えにひかれて購入すると失敗する。この頃の苗は大切に温度管理され、花本来の時期よりも早く出回る。庭や鉢に植えると、茎がやたらと徒長し、間延びした姿はだらしなく、花数も少ない。 
 それに対して路地で栽培された苗は、見た目は縮こまっていて、蕾も葉と葉の間にひっそりと身を隠している。寒風に身を縮め、霜に打たれてじっと身を潜めているようである。こんな苗は見栄えはしないが、確かに地中深く根を張り、養分をしっかり蓄え、来るべき春に備えている。春の訪れとともに一気に株を張り、次々と花をつける。茎もしっかりとした立派な苗に育つ。美しく咲いた花のかげには、見えない土の中で着実に成長している根の力があることを忘れてはならない。

 山中の花
 以前から必要に迫られて山を歩く機会が何度かあった。喘ぎながら重たい足を引きずっているとき、疲れ切った心と体をなごませてくれるものがある。それは道端に咲く花である。
 阿蘇草千里への登山道で見たヒトリシズカ、夏の阿讃山脈の渓流では、岩にはりつくように花を咲かすイワタバコ、春まだ浅い山の木漏れ日に照らされた堅香子(カタクリ)の群生…。どの花も地味ではあるが清楚で凛とした可憐さがある。
 けっして人の目を楽しませようとして咲いているのではない。人に喜ばれようと咲くのでもない。人知れずひっそりと、しかし毎年確かに咲き続けている山中の花。その花のけなげな姿にいじらしさを感じるのは私だけではないはず。

 今は土のないアパート暮らし。しかし、アパートの植え込みには、ついこの間までタマスダレが涼しげに、そして今はツワブキが盛りを見せている。四季折々の花を楽しみながら、朝の通勤を楽しんでいる今日この頃。

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《児童生徒のコーナー》 (平成13年10月)
かいて くらべよう 小学部1年
     しょくいんしつ        T.Y

 しょくいんしつは、せんせいたちがしごとをするところです。せんせいたちが、コピーをするところです。
 そのために、せんせいたちが、べんきょうをするようにつくってあります。また、本がたくさんはいるようにつくってあります。

     トイレ             Y.M

 トイレは、おしっこをしたり、てをあらったりするところです。
 そのために、トイレには、べんきが2つあります。また、すいどうも2つあります。そうじのときつかう、すいどうやどうぐもあります。うんちをするところには、見えないようにドアがついています。
ナザレ園に行って 小学部2年 A.S
 ナザレ園には、いろいろなおばあさんがいました。車いすにのっているおばあさんや、元気なおばあさんや、つえをついているおばあさんがいました。
 わたしたちがステージにならぶと、おばあさんたちが、一回も聞いたことがない歌を教えてくれました。楽しい歌でした。わたしは、おどりしかできませんでした。でも、おばあさんたちが歌を教えてくれて、うれしかったです。
 一、二年生が「ケナリ」と「夕やけ小やけ」を歌いました。おばあさんたちが、え顔で見てくれてうれしかったです。それから、三、四ねんせいが、「もみじ」と「ふじ山」を歌いました。五、六年生が歌いおわると、中学部が「さくらさくら」と「赤とんぼ」を歌いました。
 カードをおばあさんにわたしました。「アンニョンハセヨ。」と言って、わたしました。「元気でね。」と、思いながらわたしました。
ナザレ園に行って 小学部4年 M.S
 今年のナザレ園ほう問は、ぼくにとって2回目のものでした。その中で特にいんしょうに残ったのは、ミニコンサートでした。
 歌を歌っているとき、おばあさんたちにちょっとでいいから日本のことを思い出してほしいと思っていました。でも一つ心配な事がありました。練習であまりうまくいかなかったことです。でもおばあさんたちに喜んでもらおうとがんばったら、たぶんちゃんとできると思いました。
 歌が始まりました。ぼくたちが歌っている間にいっしょに歌ってくれるおばあさんや、泣いているおばあさんがいました。また、かた手が
使えないおばあさんは、つくえをたたいたりしてくれました。ぼくはとてもうれしかったです。「ふるさと」ではほとんどの人が泣いていました。喜んでくれて本当にうれしかったです。
 ぼくはおとしよりや、体の不自由な人のお手伝いをしてあげたいです。ぼくがおじいちゃんになって、ろうじんホームにはいらない元気ぴんぴんのおじいちゃんがいいけど、入るならナザレ園みたいな、明るい楽しいろうじんホームに入りたいです。ナザレ園ほう門はとても大切な行事だと思いました。
ナザレ園のおばあさんの笑顔 小学部5年 Y.H
 ぼくたちは、ナザレ園訪問にむけて、いろいろな準備をしてきました。まず、メッセージカードを書きました。カードを書くときは、このカードをもらったおばあさんはどんな気持ちになるだろうということを考えました。そして、去年会ったおばあさんの笑顔を思い浮かべながら心をこめて書きました。
音楽の授業では、「われは海の子」「おぼろ月夜」「ふるさと」の歌を練習しました。歌詞が難しくてなかなか覚えられませんでしたが、この時も、どんな気持ちでぼくたちの歌を聞いてくれるだろということを考えながら一生けん命練習しました。
 そして、いよいよナザレ園訪問です。去年いっしょに遊んだり、歌を聞いてもらったりしたおばあさんが元気でいてくれたらなあと思いながら礼拝堂に向かいました。礼拝堂に入ってみると、なつかしいおばあさんの笑顔が迎えてくれて、とてもうれしくなりました。「おばあさんたち、元気でよかった」と思いました。
 とうとうぼくたちの歌を聞いてもらうことになりました。そして、歌い始めました。ぼくは緊張して歌いにくかったです。でも、おばあさんたちの笑顔を見ていると元気になり、楽しく歌うことができました。ぼくたちがおばあさんに、元気とやさしい心をとどけるはずだったのに、おばあさんの笑顔に元気をもらいました。
 歌を歌い終わって、メッセージカードを渡す時になりました。おばあさんがどんなふうに思ってくれるかなということをずっと考えながら渡しました。一人目のおばあさんは字が読めないというおばあさんでした。ぼくは字を忘れてしまったんだなあ。それほど長い間韓国にいたんだなあと思いました。そして、次のおばあさんに渡したら、笑いながら「ありがとう」と言ってくれました。ぼくはすごく感動しました。あんまりうまい字で書けなかったけど、一生けん命心をこめて書いたので、きっとおばあさんも喜んでくれると思いました。
 ナザレ園訪問も終わり、遠足が始まりました。ぼくのクラスは半月城、瞻星台、鶏林、天馬塚を見学しました。一番印象に残っているのは半月城で見た石氷庫です。なぜかというと、石をうまく積み重ねて洞窟のような部屋を作り、そこを冷蔵庫に使っていたと聞いたからです。機械もなかったのに、大昔の人は、どうやってこんなものを作ったのか不思議に思いました。
今回のナザレ園訪問は、今までの中で一番よかったです。

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《 巻 頭 言 》 (平成13年11月)
「読書が好きになるかも!?」 学校運営委員  内山 哲男
 先日、我が家のテレビが故障したときのことです。私の場合、単身赴任ということもあって部屋に入るとまずテレビをつけるというのが韓国に来てからの生活パタ−ンになっております。その日も帰ってすぐにテレビの電源をいれましたが、かろうじて韓国の放送が1チャンネル映るのみという状況でした。リモコンのボタンをいろいろ押してみますが、なにしろ機械オンチのため、業者の人に修理に来てもらわなければどうにもなりません。自分の韓国語の交渉力は棚に上げて、こんなに遅い時間ではどうせ来てもらえないだろうと自分をなぐさめ、「さて、何をしようかな」と考えました。そういえば、日本人学校のバザ−で購入した本があったなと思い出し、買ったそのまま棚に積んでいた本の表紙をあらためて見直しました。
 もともと私の好きな著者の作品や興味のあるテ−マの作品を選んで買っていたので、それこそ時間の経つのも忘れてその中の一冊を一気に読み終えました。そして次の日、いつもなら家に帰るとすぐにテレビをつける私が、自分ながらおかしいものでテレビもつけず素直に二冊目の本に手を伸ばしました。
 どこの職場も同じかもしれませんが、銀行という職場も時間的にはかなり不規則で、いつもいつも読書の時間が作れるわけではありません。ただ一方で、時間の使い方の本当に上手な人というのも確かにいるものですよね。私も、過去に先輩から「一日は誰に対しても24時間ある」、「忙しい、忙しいというが、時間は作るものである」、「忙しいとはいっても、寝る時間はあるはずだ」、「段取りが悪いから無駄な時間を使うのだ」とか、時間についていろいろと聞かされてきました。この原稿を書きながら、これからは忙しさを口実に逃げることなく、読書の時間を作っていこうと考えている次第です。
 釜山日本人学校の児童・生徒のみなさん、みなさんは読書をしていますか?
 もちろん、テレビゲ−ムもインターネットも楽しいですよね。でも、読書にはテレビやインターネットとは違う楽しみがあります。情景、場面を、また、次の展開を想像しつつ読み進む、あるいは気に入ったところを繰り返し読む、前後を読み返す…。
 難解な哲学書や専門書を読む必要はないわけで、みなさんが興味のある本を気楽に読めばいいのではないでしょうか。
 テレビが故障したため久しぶりに読書した私ですが、こんな私でも小学生の頃はけっこう本を読みました。なぜか当時は伝記物、それも武家時代の物を好んでよく読みました。もしかしたら、当時家族と一緒にNHKの大河ドラマで時代物を見ることが多かった影響かなと思います。
 みなさんに読書をお勧めした手前、私も以前のテレビばかりの生活に戻らないようにしたいと思っています。いずれにしても、テレビが故障したために毎日出勤前に欠かさず見ているNHKドラマ「ほんまもん」を見ることができなかったのは残念ですが、あらためて読書の楽しさを感じ、また、時間の使い方について考えることができた貴重な二日間でした。

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《教職員のコーナー》 (平成13年11月)
最近思っていることをそのままに… 教諭 渡島 靖隆
中学生らしさ自分らしさ

 ”♪Do Do Do-Doo−.♪Do Do Do-Doo−. ♪Oh When the saints …”
この二日間ばかり,このメロディーが耳を離れない。もちろん学習発表会での中学部の音楽発表の記憶だ。それぞれの発表がとても印象的で,そこには数多くのドラマがあったことを見聞きしても,なお,この記憶が鮮明に残っているのは,自分が中学部(1年)の担任だからだろうか。
 表現すること(できること)は,素晴らしい事だ。表現することで次のステップが見えてくる。新たな可能性が開けてくる。そのことを実感させてくれる場面だった。生徒一人ひとりの自分らしさの中の,中学生らしさがスポットに照らされ,まぶしく光っている感じがした。
「中学生らしいとはどういうことか?」をいつも考えているわりにはうまく説明できなかったが,あの場面,「例えば,こういうことさ。」と言える瞬間だったかも知れない。
 たった3人の中学生が中学生らしさを身につけることは大変なこと。でもそれは,『自分らしさ』をみつめ,『自分らしく』あることで,自然に付いてくるものなのかも知れない。

釜山日本人学校の中の中学部

 釜山日本人学校が小規模ゆえの長所,小規模ゆえの短所はいったい何だろう。
 いろいろとあるだろうが,長所としてまず最初に思いつくのは,一人ひとりの子供たちが決してうずもれてしまう事が無いことだ。大きな学校では,能力が有る無しに関係無く活躍の場を与えられず,そのことによって伸びるチャンスを逸してしまうことがある。少なくとも釜山日本人学校では絶えずチャンスの連続だ。しかし逆に,常に活躍の場を与えられることは子供にとってストレスの原因になるかも知れない。一つの活躍の場から次の出番までには,それなりの充電期間が必要で,その間に他の人の活躍の様子を見て学ぶことも極めて重要な事だと言えるだろう。
 今の中学部は,常に急速充電の状態だ。しかも,中学生というイメージが希薄な環境の中での急速充電は大変なものだろう。だからといって,逃げようがないのも事実だ。だから,息切れがしないように,
「ちょっと肩の力を抜いて,だけど手は抜かない。」
「失敗をしても,必ず挽回のチャンスがある。」
そんな雰囲気ができたらいいなと思う。いつも要求ばかりの自分への反省をこめてそう思う。
 頑張れ中学部。

続・知的財産権 (Intellectual Property)

 学習発表会での中学部ステージ発表の演題は,『知的財産権』。
 『知的財産権(知的所有権)』を,「人の精神的,知的な創造活動が生み出した技術上・営業上の情報・信用など,形のない”もの”にも経済的な価値(知的財産)を認め,それに伴う権利を総称したもの。」と定義できるとすれば,もともとは経済用語なのかも知れない。しかし,自分の功績が評価されようとするとき,人々がその知的財産に無頓着だったら,さらに創造していこうという意欲は失われてしまうだろう。しいては,社会の繁栄も望めなくなってしまう可能性さえある。
 社会の情報化が進む中,小・中学生にも情報リテラシー(活用能力)を身に付けさせなくてはという動きが教育界で出てきたのはもう15年も前のこと(自治体によってはかなり遅れている)だが,今なお技術論が優先で知的財産権に関わるようなモラルの指導は,必要最小限。付け加え程度といった感じさえする。そして,その原因はそれを指導する側の大人,もちろん教師も含めてだが,その大人のあいまいさゆえという気もする。
 だからといって,例えば,偽ブランド商品を買うという行為を即犯罪扱いしようというつもりは毛頭ないし,今回学習した中学部の生徒たちもそんな意識はもっていないと思う。中学生も今回の学習が単なる法の学習でないことや,複雑に絡み合った事情を理解できる年齢だ。
 総合的な学習の時間において,各自の課題解決のための貴重な時間を割いて行った今回の取り組みは,多少時期尚早ではあったかも知れない。しかし,競争と繁栄という社会秩序のバランスの中で生き抜いて行かなくてはならない子供たちにとって,それなりの意味はあった内容だったと思う。私にとっては初の試みではあったが(おそらく資料の無さから考えてもあまり前例が無い),生徒たちが,興味を持って取り組んでくれたことは,何よりの収穫だった。
(この場を借りて,学習に際しアンケートにご協力してくださった保護者の皆様方にお礼を申し上げます。誠にありがとうございました。)

学習に活用した参考資料
「中学生のための著作権教室」
     (財)消費者教育支援センター
「知的財産とは」
 HPwww.jipa.or.jp/1.html
「知的財産用語辞典」
 HPwww.furutani.co.jp/cgi-bin/term.cgi

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《児童生徒のコーナー》 (平成13年11月)
楽しかった三校交りゅう会 小学部2年 A.S
 11月9日に、三校交りゅう会がありました。ISPの人とミンラクチョドンハッキョの人たちが、日本人学校にきました。
 はじめに、日本人学校の人がたいこをやりました。わたしが、たたく番になりました。わたしは、カァンという音を出してしまいました。もくひょうは、カァンという音をたてないようにすることだったから、しっぱいしたと思ったのですが、たいこがおわってから、先生がほめてくれたので、とてもうれしかったです。
 つぎに、ISPの人たちが歌いました。聞いていたら、日本人の人もいて、その人までじょうずに歌っていたので、わたしは、
「こんなにじょうずになったらいいな。」
と、思いました。 ISPの人がおわりました。
 こんどは、ミンラクチョドンハッキョの人が、テコンドのおどりをやりました。おどっている人が、どんどん前にけりながらきたので、えりこちゃんとわたしは、こわがっていました。わたしも、テコンドをならっているので、こういうふうになれたら、サボニンがほめてくれるのにな、と思いながら見ていました。
 また、ミンラクの人が、サムルノリをしました。「何で男の人はあまりやらないんだろう。」と、前から考えていたのですが、まだわかりません。
 これで、みんなのはっぴょうがおわりました。
 さいごに、日本人学校のみんなが、日本のあそびを教えて、いっしょにあそびました。1・2年生は、すごろくをしました。わたしは、Bチームなので、さいしょはあそんでいました。そして、時間になったので、2年生教室にもどってきました。さいしょは、だれも来なかったので、Bチームでやっていました。そうしたら、ISPの人が来ました。わたしは、ほっとしました。ときどき、ことばをわすれてしまうことがありましたが、今までれんしゅうしてきたので、あんまりこまることはありませんでした。
 わかれるころになりました。わたしは、けいみちゃんとアーチを作ってあげました。通るときに、せなかをちょんちょんとたたいていました。みんなが通りすぎると、わたしたちもいっしょに通りました。ISPの人とミンラクの人が帰るときに、
「またあそぼうね。」
と、言いました。
トッケビをやって感じたこと 小学部3年 M.M
 ぼくは「トッケビの村」の劇で青鬼の役をしました。この劇にはもう1人瑞樹君が演じた赤鬼の「カー」も登場します。何回も練習をくりかえして、本番当日の「トッケビの村」がはじまった時、緊張のあまりにさいしょの言葉を忘れてしまいました。この時、廉君がセリフの歌を歌ってくれたので、思い出して一緒に歌えたのでホッとしました。ぼくの出番の直前にあるおばあさんとチョンシギの会話の時が一番ドキドキしました。今回は、お面をかぶっていたので、前もって録音しておいたテープに合わせて動作をしなければならなかったので、よけい緊張したと思います。
 「トッケビの村」のお話でぼくが一番見てほしかった所は、体で「命」の字を作るところです。セリフの中に「人間どもに金棒を使われたらわしらの命もあぶない」という言葉があり、ぼくは「命」という字を体で表現したかったからです。
 ちょこまかと動いてカーを追いかけるシーンがあるのですが、リハーサルの時はとてもうけました。ところが、本番ではあまりうけませんでした。ぼくは、とても不思議に思い、お昼の時間にお母さんに聞いてみました。そしたらお母さんは、「たぶん暗くて動きがよく見えなかったんじゃないの」と言われて、ぼくは「なるほど」と思いました。
三校交流会で得したこと 小学部5年 H.T
私が三校交流会で得したことは、ISPの人と民樂初等学校の人たちの笑顔が見られたことです。
 なぜかと言うと、ふだんはあまり顔を合わす機会がないので、その分満足感がありました。
 みんな羽子板を楽しんでくれていました。はしゃぎながら人と羽子板をやったり、黒山先生と羽子板をやったりしていました。
 特に認定書のシールが大人気で、シールをもらうたびにニコニコしていました。この二つの学校の人の笑顔を見ることができたことが、私の得したことです。
学習発表会とわたし 中学部1年 Y.Y
 今年の学習発表会は、去年とは全く違うものでした…。
 私の通っていた前の学校は、一クラス三十四人くらいいて、それが五クラス有りました。なので、普通にしていれば、学習発表会などでも注目をあびることはありませんでした。それが、ここは三人だけです。普通にしていたって大注目です。もともと人前に出て何かするのが苦手なので、「中学部だけでやる」と言われた時はやっぱり嫌だったし、三人だけでできるのか不安でした。しかも、ステージ発表は『知的財産権』という堅い内容のものだったので、最初のころは本当に、
「あー。もういやだ〜。」
の連続でした。
 でも、本当に大変だったのは、綾乃さんでした。もうすぐ受験で、今、一番大切な時期なのに学習発表会の準備もしなくてはならなかったからです。それなのに、私は綾乃さんに迷惑ばかりかけていました。自分が情けなく、綾乃さんには感謝の気持ちでいっぱいです。
 本番二週間くらい前から、ビデオ撮影が始まりました。NGは出すまいと思っていたのに、撮影が面白くて笑ってしまい、一番多くNGを出してしまいました。
 歌の方は、私はほとんどメロディー担当だったので、あまり不安はありませんでした。それで、こっちは大丈夫と思っていたのに、当日ベットから起き上がると鼻がつまっていました。
「なんでこんな日に!」
と叫びたくなりました。幸い歌を歌うのには問題は無く、ホッとしました。学校に着いてから、三人で最終チェックをして講堂に上がりました。
 いよいよ発表会がスタートし、私たちの一度目の舞台は、一・二年生の後の音楽発表です。自分たちの出番が近づくにつれて緊張がどんどん高まっていきました。
「次は、中学部の発表です……。」
暗闇の中、スポットライトが当たりました。ライトのおかげで、お客さんの顔が見えず、高まっていた緊張が少しとけました。さらにリコーダーはミス無くできたおかげで、緊張もだいぶやわらぎました。
「あとは、歌をきちんと歌えば終わりだ。」
と思ったところが、二回繰り返すところを三回繰り返してしまったのです。
「やっちゃった。」
と思いましたが、綾乃さんと祐太君が自然とフォローしてくれました。歌い終わると、お客さんたちが大きな拍手をしてくれました。私はそれがうれしくてたまりませんでした。
 私は、この学習発表会で人前に出ることが嫌いでなくなったと思います。なぜなら一生懸命にやれば、みんながそれを認めてくれると分かったからです。

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《 巻 頭 言 》 (平成13年12月)
「緑の日章旗」 学校運営委員  余田 幸夫
 21世紀最初の年は、国のシンボルとしての国旗が印象として残っているような気がする。対日デモと日章旗、テロと星条旗、W杯抽選と各国の旗・・・。
<板門店と国旗>
 今年好評の「JSA(共同警備区域)」映画の影響もあって、9月初、約25年振りに「板門店」を訪れた。北朝鮮側の「宣伝村」にはきれいなアパートが立ち並らび、そこには高さ160m(釜山ロッテホテルの高さ172m)の鉄塔に巨大な北朝鮮の国旗が風にゆっくり靡いていた。ガイドによれば、その旗の大きさは、なんと縦12m、横34m、重量270kg。信じ難いが事実だそうで、世界最大の国旗に相違ない。一方、韓国側の「自由の村」にも100mの鉄塔に縦12m、横18m、重量150kgの「大極旗」が風に揺れていた。巨大な二つの国旗が南北軍事境界線を挟んで誇示し合っているように見えた。双方が国旗に託した悲願とその重みが(名実共に)よく判る光景であった。二つの旗が徐々に接近し、今よりも更に大きな統一国旗が青空に舞う日が一日も早く訪れることを願いながら板門店を後にした。
 帰りのバスの中で、1986年の金日成死亡説を思い出した。それは北朝鮮の国旗が半旗となり、宣伝村の放送からも悲しい音楽が流れたこと等から、金日成死亡情報が世界を駆けめぐった。誤報であったが、これは北朝鮮が米韓の出方を見極めるため故意に仕組んだ半旗であったとの見方が支配的であった。それから8年後の1994年、今度は北朝鮮が金日成主席の突然の死亡を発表した。当時、たまたま中朝の国境都市・丹東(中国)にいた私は、北朝鮮の新義州を鴨緑江越しに眺めつつ、各建物に掲げた国旗も、北朝鮮の各船舶の国旗も全てが半旗となっていたことで、金主席の死亡を改めて確認できた。
<国旗に関する恥ずかしい思い出>
昔々(1975年)、ソウルで外国人韓国語弁論大会が開催され、わが同胞・日本人も私の他に数名が参加した。会場に着いてみると、壇上(舞台)の背後に米、英、仏など6カ国の特大の国旗が天井から吊り下げられていた。よく見るとわが祖国の日章旗は、無惨にも「白地に赤く」のはずの白地が緑に塗りたくられている。我々同胞は、咄嗟に前年の日本大使館襲撃事件以降の激しい反日運動の煽りがこの壇上にまでも及んだかと緊張した。壇上で熱弁をふるおうとするも、背後の緑の日章旗のプレッシャーに負けそうになる。その夜、わが同胞達は「あの緑、日本を馬鹿にしちょる!やり方が姑息で汚なすぎるっちゃ!」等と酒を飲みながら憂さ晴らし。翌日、何となく気になって世界地図を引き出し、世界の国旗を見ていたら、あの「緑の日章旗」が目に入った。何ごとかと目をこすって冷静に見ると、下に「バングラデシュ」と書いてあり、急に顔が火照ってきた。それ以来、どんな国旗を見ても静かにしていることにした(注:わが同胞は25年も前からバングラデシュの国旗の色や形を既に知っていたわけで・・・・)。
<アメリカでの国旗>
今年最大の事件は、9月のニューヨークでの同時多発テロ。世界貿易ビル倒壊後、その焼け跡にまず星条旗がたてられた。「イチロー」大活躍の大リーグでも全チームの選手のユニフォームに小さな星条旗が付けられた。つい最近では、華やかに点燈されたロックフェラー・センターのクリスマスツリーの周囲には、従来の万国旗に代わって全て星条旗が掲揚された。星条旗からは米国人のテロに屈しない強い意志と勇気、生命力が感じられる。これらを見ながら、現在の日本にも米国のような国旗に対する発想があってもよいのではないかと思った。
<日本での国旗>
日本では以前、学校の卒業式での国旗掲揚反対等が問題となった。今までの海外勤務地が、いずれも国旗と国歌に最高の敬意を表することが国民としての基本であるという国であったせいか、日本での問題がよく理解出来ない。どの国も過去の革命や戦争で国旗を血に染めたことがあり、その国と国民が経てきた過去の全てと将来の夢を語っているのが国旗だと思う。そのような全ての意味を含んだ自国の国旗に敬意を抱き愛する気持ちを持ってこそ、外国の国旗に対しても敬意を払うことが出来るものと信じている。
何かと暗かった今年の国旗も、「敬宮(としのみや)愛子」内親王殿下の御誕生により、日本の全国に明るくたなびく日章旗で締めくくられた。来年は日韓国民交流年。日韓共催W杯、釜山アジア大会、いずれにも日章旗と太極旗が双方を応援し合う、そんな年になることを期待し、楽しみにしている。

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《教職員のコーナー》 (平成13年12月)
世界遺産めぐり 教諭 山本 みのり
 世界遺産、これを全部訪れることができたら…。これは、私の夢(あくまでも夢)の一つである。
 ユネスコにより指定された世界遺産について、最近、特に耳にすることが多くなった。
テレビでも、本でも、よく紹介されている。それとともに、影響されやすい私は、やはり、世界遺産というぶあつい本を買い込み、なるほど、と考えた。お金も暇もない私だけれど、何とか人類の宝というものを見てみたいものだと。ちなみに、世界遺産は、「文化遺産」「自然遺産」「複合遺産」の3つに分類され、「 文化遺産」とは、すぐれた普遍的価値をもつ建築物や遺跡など、「自然遺産」は、すぐれた価値をもつ地形や生物、景観などを有する地域を、「複合遺産」とは、文化と自然両方の要素を兼ね備えているものを指すそうである。(社団法人日本ユネスコ協会連盟による。)もともとは、1959年、エジプトのダム建設により水没する危険のあるアブ・シンベル神殿などを保護しようとユネスコが呼びかけ、遺跡を移すことに成功したのが始まりだそうである。
 そこで、まずは、身近なところから始まるのである。なんだ、私の出身地である姫路市にも一つあるではないか。姫路城、これは日本が世界に誇ることのできるものだと思う。私は結構この城が気に入っていて、時間があれば、城を訪れた。高校時代、ふだんはバスで通う道を、わざわざ重いカバンを引きずりながら、桜の季節には歩いて通り抜けたものである。そして、最近になり、高校時代はまだ登録されていなかった姫路城を、世界文化遺産として、なるほど、と見直した。姫路城、すごいではないか。世界文化遺産に指定されると、いつもの城が、また異なる見え方をするのだから、現金なものである。さらに、関西に住んでいるのを良いことに、歴史街道に沿って、奈良や京都を訪れるようになった。ここは、文化遺産の宝庫である。数えられないほどの木造建築物に出会い、日本史は苦手な私でも、昔の息吹に触れると、勉強したい気分になったものだ。
 もともと、旅行が好きな私にとっては、きっかけの一つに過ぎないかもしれないが、広い意味では、自分の周囲を見直す良い機会だったかもしれない。
 そして、それは、海外を旅するときにもつながり、旅する先を決めるときから,ここには、この遺跡がある、とか、ここは世界遺産だ、とか考え、前もって本の1冊でも勉強してから行こうと思うようになった。エジプトではピラミッドを見ながら、その石の一つ一つの大きさに感激し、ローマではフォロロマーノにたたずみ、ここにシーザーもたたずんだはず、と頭の中で考えて、一人にんまりと笑う。
 そんな中、韓国へ来ることになり、やはり世界遺産は気にかかる。ある、ある。ふむふむ、海印寺、宗廟、仏国寺や石窟庵、昌徳宮、水原華城、こことここか。そして、それらを調べることは、韓国の歴史や文化を知ることとつながる。
 今のところ、まだすべてにいってみるということはできていない。しかし、幸いなことに、水原華城と、慶州等を訪れることができた。
 城一つとってみても、韓国、日本は文化に共通点が多いといっても、やはりちがう。例えば、日本の城として、姫路城を例に挙げると、石垣と天守がある。韓国の城は、世界遺産である水原華城もそうであるが、どうも、自然の山を利用して建てられているものが多いようである。また、天守はない。
 慶州でも、仏国寺や石窟庵で、日本と韓国の仏教文化の共通点や相違点に思いをめぐらせるのも楽しい。ただし、周りの人から見れば、あの人いったい何をボーっとしているのかな?と思われているかもしれないが。なるほど、と感心させられることが多いのである。また、文化に触れ、いろいろな人から話を聞くのもいい。
 こうして、できることなら、多くの世界遺産を訪れたいとは思うが、世界遺産は、毎年追加認定があり、増えているそうで、なかなか大変である。韓国でも、2000年12月に、江華などの巨石墓石、慶州歴史地域が新たに認定された。 時間が許せば、韓国の世界遺産を制覇できればいいな。そして、それが、本当に韓国を知り、理解することにつながればいい。そして、それを子どもたちにもうまく伝えられるといいな、と思っている、今日この頃である。

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《児童生徒のコーナー》 (平成13年12月)
わたしがつくったカレンダー 小学部1年
7・8月        S.O
 ことしのなつは、クロールで8メートルおよげました。らいねんは、12メートルがもくひょうです。
 ながいなつ休み、ともだちとあそべないのはざんねんだけれども、どこかにつれていってもらうのがたのしみです。

1・2月        M.S
 わたしのいえでおもちつきをしてたべます。さとうとしょうゆをまぜて、おもちにつけてたべたり、おもちをのばして、さとうをかけてまるめてたべます。
 2月は、バレンタインデーがあります。たいせつな人にチョコレートをあげます。
2学期を振り返って 小学部3年 R.K
 僕の2学期の目標は、2つありました。1つは、「韓国の人たちと親しくする。」、もう1つは、「睡眠時間をきちんととる」でした。今振り返ってみると、よく韓国の人にあいさつされることがありました。しかし、工事をしているおじさんにたまにあいさつすると、答えてくれなかったり、ぶっきらぼうに答えられるときが多かったので、嫌になり、たまに出かける人に会っても言わなくなりました。せっかくたてた目標なので達成しようと思っても、なかなか言えませんでした。しかし、お礼はよく言えたと思います。エレベーターに乗るときなどで待っててくれたことがあり、お礼をたくさん言えるようになりました。これからは、今までのあいさつからもう一歩踏み込んで、お話しをすることが次の目標です。
 睡眠時間のことですが、きちんととったりとらなかったりと不規則だったと思います。日本に帰ったら、毎朝6時に起きなければいけません。今のうちから早めに起きる練習することを「3学期のめあて」にしたいと思います。
優秀賞をもらって 小学部4年 M.S
 12月11日に朝会で優秀賞をもらいました。ちょっと前に正浩君が教えてくれました。でもぼくはどの作品かわかりませんでした。国語のノートを見てみると、コンクールに出した3つの作品がありました。次のページを見ると、笑い出したくなるようなへんてこな短歌がありました。でもあの時はとてもがんばって短歌を作っていました。宿題でも、授業でもやりました。(これじゃあだめだ、こうしよう。)などととてもなやみました。あの時なやんで、なやんでがんばったので優秀賞をもらえたと思います。これからいろいろな賞をもらえるようにがんばりたいです。

受賞作品
 国際市場(クッチェシジャン) アジュマがよぶよ「買いなさい」 出会いたくさん 韓国の街
  韓国人の親切心は時としてパワーとして現れます。バスの中で立っていたとき、座っている人に突然自分のバックをとられ、あっと驚いたら実は膝の上においてくれました。またタクシーの運転手さんは日本人だと分かると日本語で分かる単語を次々言ってくれます。しかしそんな中でも最もパワーを感じるのは、国際市場です。ここではアジュマが「買いなさい」と何度も言ってきます。その言い方や動作は正しくパワーがあふれるています。そんなパワフルで親切な韓国人と出会いがたくさんある国際市場だなあ。
二学期を振り返って 小学部6年 Y.T
 二学期は、運動会、ナザレ園訪問などいろんな行事がありました。その中で一番苦労した行事は、学習発表会でした。残り少ない日で動きを覚え、家では毎日のように練習…。なかなか覚えることのできない昔の言葉。チームワークがないとできない演技。考えただけで全部がいやになるけど、最後までがんばった「附子」。今までで一番の学習発表会でした。
 わたしが成長したなあと思うことは、声の大きさです。音楽の時間には、今まで自信がなくて歌を歌うときに声が小さかったのに、二学期になって声が大きくなりました。全校運動のかけ声も大きくなりました。
 わたしが、今がんばっていることは、委員長としての責任を果たすことです。以前全校運動の新企画をするときに、わたしも副委員長も休んでしまい、委員の一人だけでやったことがありました。わたしはそのとき、もう少し委員長として責任を自覚しなくてはと思いました。
 三学期にがんばりたいことは、あまり休まないということです。これまで寝る時間がおそくなってしまって、体をこわしてしまったことがあったからです。さらに、今がんばっている全校運動のかけ声が小さくならないように努力したいと思います。

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《 巻 頭 言 》 (平成13年2学期末)

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《教職員のコーナー》 (平成13年2学期末)

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《児童生徒のコーナー》 (平成13年2学期末)

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《 巻 頭 言 》 (平成14年1月)

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《教職員のコーナー》 (平成14年1月)

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《児童生徒のコーナー》 (平成14年1月)

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《 巻 頭 言 》 (平成14年2月)

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《教職員のコーナー》 (平成14年2月)

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《児童生徒のコーナー》 (平成14年2月)

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