学校だより 「広安里(カンアンリ)」 平成12年度
update 2001.2.27

巻 頭 言 教職員(保護者)のコーナー 児童生徒のコーナー
3月
2月
1月 釜山日本人学校における不易と流行
(釜山日本人学校教頭)
みたまんまあいしな 三学きのもくひょう
しんねんおたのしみかいのこと
けがのグラフから、3学期の目標
釜山に来てからの経験
2学期末 韓国で過ごして いま 思えば… 三校こうりゅう会
自分とのたたかい
3回目の学習発表会
生徒会長になって得たもの
12 達成感(在釜山日本国総領事館 領事) 私のふるさと観  播州の秋祭りを通して 三校こうりゅうかいがあったよ。
みんな喜んでくれた交流会
楽しかった三校交流会
11 近頃 親として思うこ(釜山日本人学校運営委員) 熱く長い1日〜テコンドー初段審査奮闘記〜 ナザレ園を訪問して
おばあさんの笑顔
10 一夜、思いにまかせて うんどうかいのこと、八十メートル走
ヨッシャー、「好 天」
PTA会長としての抱負(新PTA会長) お茶の話 二学きのもくひょう
二学期にがんばる事
Very goodだった夏休み
二学期を迎えて
1学期をふりかえって
(小1の保護者より)
「社交場としてのムラの学校」実践編
日本人学校で「大人のときめき」をいかがでしょうか
(釜山日本人学校運営委員長)
価値観 かぜをひいた
小学部最後のキャンプ
体験旅行に行って など
PTA会長になって 今さら歴史小説でもないけれど… たのしかったファミリー・ファン・デイ
名たんていアリクイ など
親子の共通体験(釜山日本人学校長) 新派遣教員 挨拶 新入生 歓迎のことば

学校だよりのメインページ

《 巻 頭 言 》  (平成12年4月)
親子の共通体験 釜山日本人学校長  菊 田 藤 明
(原籍校 愛知県名古屋市立香流小学校)
 子供のころ、自転車に乗ることが出来るようになってから、10年以上も自転車に乗る機会が無くても、不思議と自転車に乗ることが出来るものです。これは、頭で知識として自転車の乗り方を修得したのではなく、体の様々な器官を通して修得したからだと思います。このことは、体験を通して修得したことは、きちんと身に付いて、なかなか忘れることはない事を示していると思われます。この考え方を重視したのが平成14年度から実施される新学習指導要領のねらいです。とりわけ「総合的な学習の時間」〈本校では「釜山の時間」と言っています。〉の創設に関しては、既にこの「広安里」を通してご紹介しましたのでご承知の事と思います。この体験的な活動が重視され、子供たち自身が課題を見付け、自分なりに解決する活動について、私の思っている事を述べてみたいと思います。
 過日、日本から取り寄せている新聞に、現在の子供たちは、親が子供の時に比べて、極端に自然体験が減少しているという記事がありました。その中の一例として、日の出や夜空の星を見て感動するといった自然体験が少なくなっていることが述べられていました。
 私が子供の頃(昭和20年代後半から30年代)は、街の中にも結構自然が残っていました。家の近くには名古屋城のお堀へ続く広い未整備の敷地があり、一面草むらがありました。学校から帰ると、友達とよくその場所へ行って昆虫捕りをしたり、お堀の周りの木々でセミ捕りをしたりして遊びました。また、そこにはトロッコがあったので、日曜日などはそれをレールに乗せて遊んだこともありました。いずれにしても、自然の中で遊ぶことが多かったと思います。しかしながら、家族で一緒に遊んだ記憶が殆ど無く、海水浴に連れて行って貰った事、職場の旅行に連れて行って貰った事などの記憶しかありません。ですから、親子共通の体験があまりありません。現在のようにアウトドアライフを親子で楽しむような経験はありませんでした。
 私自身は、自分の子供に様々な体験をさせたいと思っていましたが、仕事柄、長期休業中でも部活動の指導などでなかなか時間が取れず、十分な事は出来ませんでした。それでも、色々な所を家族旅行しながら、出来るだけ様々な体験をと心掛け、乗鞍スカイラインまで車で行っての山頂登頂、三方五湖での海水浴などを旅行の中に組み入れた事があります。息子が結婚し子供が出来てからは、息子夫婦も海水浴や乗鞍スカイライン等へ出掛けているようです。
 また、私自身の趣味の一つに鉄道模型があります。私自身子供の頃から、鉄道車両に関する事に関心があり、駅へ行って一日中列車を眺めたり、写真を撮ったりした事があります。息子が小さい頃は、真鍮の鉄道模型セットを購入し、ハンダを使って組み立てていました。息子と電車や新幹線に乗ったこともあります。また、鉄道関係の雑誌もたくさんあり、息子も良く見ていました。その影響からか、息子も鉄道に興味を持ち、中学・高校時代には、Nゲージの鉄道模型を走らせていました。その後、私自身は仕事が忙しくなり、模型作りは完全休業中ですが、いろいろな鉄道車両を見たり、乗ったりるすることは現在も続けています。韓国に来てセマウル号やムグンファ号に乗りました。過日、息子夫婦が釜山に来た時、息子と孫を連れて釜山駅まで行き、韓国の鉄道列車を見てきました。二歳半の孫などは、セマウル号の列車を見て「ラピート(関空へ行く列車の名前)乗ったね。」と言っていました。息子の趣味が孫へ移った感があります。
 つたない私自身の経験から考えますと、家族が一緒に体験した事や親の趣味が、知らず知らずのうちに子供の成長に大きな影響力を与えていると思われます。逆に、親子が体験しないことは、なかなか子供に受け継がれていかないとも言えると思います。私自身、子供たちには、自然体験を含め、ボランティア体験・家事の手伝い(掃除・料理・子守り等)など、様々な体験をして欲しいと願っています。それは、体験することで、確実に自分のものとして修得出来るからです。そのためには、親が積極的に行動して、親子で様々な体験をする工夫をしなければいけないと思います。さらには、韓国で生活していることを生かした体験もして欲しいと思います。そして、親子で体験したことが、子供にとって「生きる力」となり、社会人になったときに大きな力になって発揮されることを期待しています。

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《児童生徒のことば》 (平成12年4月)
新入生歓迎のことば 小学部6年 H.H
 新しく入学されたみなさん、ご入学おめでとうございます。そして、ようこそ釜山日本人学校へ。私たちは、今日が来るのをとても心待ちにしていました。
 この学校は、とても楽しい行事がたくさんあります。これから力を合わせて、毎日が楽しい学校生活を送りましょう。
中学部3年 M.S
 今日、はれて中学生になったみなさん、おめでとうございます。長かった小学校生活の6年間が終わり、いよいよ新しい生活の始まりです。有意義な中学生生活を送れるよう、是非自分の目標をもってください。
 みなさんもご存じのように、釜山日本人学校は小さな校舎で、私たちは家族のように生活しています。上級生は、下級生の面倒を見てあげたりする場面もたくさんあります。
 行事の面では、体験旅行、運動会などで、中学生が中心になっていかなければなりません。大変な面もありますが、中学生の一員としてがんばって下さい。
 学習の面では、小学生の時とは違い、定期テストがあります。勉強時間や方法の工夫が必要になってくると思います。
 このように、行事や学習においても小学生の時とは違う生活が始まります。中学生として、よいスタートが切れるように願っています。
 最初は、戸惑うことがあると思いますが、楽しい中学3年間が送れるように、毎日を大切に過ごしてください。何か困ったことがあったら、いつでも遠慮なく私たち2、3年生に聞いてください。 
 これからの中学校生活を共にがんばっていきましょう。

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《 巻 頭 言 》 (平成12年5月)
PTA会長になって 釜山日本人学校 PTA会長
吉 村 保 雄
 今度、釜山日本人学校のPTA会長になりました。これを機会に、教育というものについて少し考えてみました。
 教育とは「おしえ、そだてる」と訓読します。この訓読を当てた昔の日本人の知恵に敬服するのみですが、問題は「おしえ、そだてる」こと
の難しさです。殊に「おしえ」ることはともかく、「そだてる」ことは至難のわざであると私は思います。何故なら「おしえ」ることは、自分が知っていることを相手がわかるように、言葉や態度・姿を通じ伝えていくのですが、「そだてる」ことは簡単にはいきません。そこには、
単に自分のもっているものを出せばすむというものではなく、責任といったものが伴うからです。責任とは、育てる側が育てられる側に対し
て責任をもつという意味です。
 もちろん責任そのものは、「おしえ」ることについても忘れてはならないことですが、「そだてる」ことについては次の三つの要素が必要になると考ます。
 一は、目標である。相手をどのような方向に導くかというゴールの設定です。
 二に、個人である。相手の個性、能力を徹底的に知り、そしてそれに立ち向かわねばなりません。
 三に、進路・方向です。ここでいう「進路」とは単に上級学校を選ぶとかいう意味に止まらず、相手が今後歩むであろう世、時代の流れを踏まえた人生コースという意味まで含めたいのです。
 教育そのものが学校にだけ限られるものでないのと同じく、この三つの要素も学校にのみ限定されるものではもちろんありません。目標とはその個人、具体的には学校の生徒や学生が自分で努力し探すことが求められますし、進路・方向については産業・政治など、社会全般ひいては世界、どうかすると宇宙まで含まれた広汎な範囲の要素に及ぶところまで考えなければなりません。
 しかし、二番目の「個人」については、この三つの中でやはり学校に期待されるところが一番大きいのではないでしょうか。「そだて」られる側の人間の個性・能力を知らずしては「そだてる」作業の前提が成立しないと考えられるからです。
 相手である子供の個性・能力をよりよく把握するために父母と学校側、特に教師とが連絡を密にするということは、大いに納得のいく話です。
 世の中で最も難しい質問は「私は誰か」である、と言った人がいます。至言だと思います。
自分で自分がわからぬのが実態であり、またそのように考えなければいわゆる「謙虚さ」は磨かれてこないのではないでしょうか。「そだて」られる子供の立場に立てば、このよく知らぬわからぬ自分というものについて、子供に対し助けてあげるのが父母であり学校でありましょう。だとすれば、その両者が助け合うことは当然だとも言えるし、また助け合えば子供にとって大きな力となるでしょう。
 冒頭に述べた戦後の教育の理想に照らしてみるとき、教育は「おしえ」ることもさることながら、「そだてる」ことが疎かにならぬよう常
に気にかけなければならないのではないでしょうか。この間の事情は、韓国でも程度の差こそあれ同様であるとの感をもちます。
 教育とは企業やその他の組織に合った「規格」品のような要素をつくるためのものではなく、「人間」をつくるためのものです。まして、明治以来日本が歩んで来た欧米諸国のモデルに追いつき追い越すための、あるパターン・型にはまる部品のような存在に教育の相手をつくりあげることでは、もうなさそうです。 
 個人に注目しつつ、目標を正しくしっかりもち、価値ある方向へと進む教育をともに目ざしたいものです。

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《教職員のコーナー》 (平成12年5月)
今さら歴史小説でもないけれど… 教諭 黒 山 寛 司
 春休みの図書室。
「少しは時間もできたし、いっちょまとめて本でも読もうかな。」
「かといって、ここにぼくのニーズに合った本なんてあったかしらん。」
 ぶつぶつ独り言を言う私の目に本棚の一角がとまった。”豊臣秀吉”。
「う〜ん、プンシンスギルねえ。」
 このとき、韓国語の家庭教師に来てもらっている大学生とのある日のやりとりが思い出された。
「クロヤマサンの韓国語が上達したら、韓日関係史について議論できたらいいな、とぼくは思っているんですよ。」
「へえ。」(なに言ってんだよ、毎回ばかばか宿題出されてこちらはヒイヒイなのに、そんなことがちょっとやそっとでできるわけないでしょうが。)
「では、なにか話してみてください。」
「え?うっ。」(いきなりくるかなあ!)
 しかし、平素は”ハッキョ ソンセンニム”として韓国の若者らしくそれなりに「たてて」くれている相手である。「ウ〜ン、チャルモルアヨ。」と言って下を向かれるのもしゃくにさわる。
「ぼくのコヒャンの広島にはねえ、”朝鮮通信使”が東上する際の「寄港地」がたくさんあるんですよ。この通信使とはねえ、知っていると思うけど、豊臣秀吉の壬申倭乱のあとひえきっていた日朝の関係が回復した象徴として云々…。」わずかに知っていることをぶちまけたけれども、彼は軽く頷きながら聞いている。しかし、そのあとで彼に秀吉に関するエピソードを二つ三つ紹介されたところで不十分であったことを悟った。それはそうである。だって歴史の教科書に書いてあっただろう、うわっつらの話にしか過ぎなかったのだから。まがりなりにも歴史を語ろうとするには、そこに生きた人間の人となり、考え方や生きざまを抜きにしてはあり得ない、ということに今さらながら気づく。
 一方で、私はいわゆる歴史小説というたぐいの本にある種の「距離」を感じてきた。
 「〜でござる。」だの「そちはなんとする。」だの文語と口語が変に入り交じった、文体がちょっとめんどくさいというのもあるにはあった。しかし第一の理由は、膨大な資料と綿密な取材に裏付けられているとはいえ、結局は作者の主観的な歴史観が展開されていく。そしてそれが英雄史観であればなおさら、単純な自分は自身の中に主人公がヒーローとして定着してしまい、客観的な評価を受け入れがたくなるのでは、という懸念があったからである。
 しかし、ここ韓国に住んで、1年あまり。あちこちで見かける李舜臣将軍の像をはじめ、秀吉を意識する機会が頻繁にあった。そして、少なからず韓国における秀吉の評価を聞き、またふれてきた。(つまり彼については国外でのそれをむしろ先に)だから、今なら歴史小説を読んでもいいはず。と自分の中でわけのわからない理屈がついてしまって…。
 「よし!」と手にした”豊臣秀吉”(山岡荘八歴史文庫・講談社)。
「いやまてよ。どうせ読むなら”織田信長”からのほうがよりくわしくていろんな角度から見られるよな。」
 というわけで、今度はあのテハクセンをぎゃふんといわせてやるために、なぜか”信長”を読む羽目になってしまった私です。で、読み終わっての感想は…
「おれもこんな風に物事を大局的に、先を見通した眼力を持ちたいものよのう。」
(←これ完全に英雄史観に「毒され」ている。)
でありました。
P・S ごらんになった方がほとんどでしょうが、日本人人学校図書室には、
   山岡荘八歴史文庫   織田信長(1)〜(5)、豊臣秀吉(1)〜(8)、徳川慶喜(1)〜(6)、坂本龍馬(1)〜(3)
などがございます。

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《児童生徒のコーナー》 (平成12年5月)
たのしかったファミリー・ファン・デイ 小学部2年 R.M
 13日の土曜日にファミリー・ファン・デイにさんかしました。
 さいしょは、しほちゃんとつりをして5つもとり、みどりのかみをもらいました。マシンができるということで、どれだかわからなかったのでこまつざき先生に聞いて、教えてもらいました。みどりのかみをわたしたら、100ウォンもらったので、それでガチャポンをしました。それでなんか作れるのがでてきました。うれしかったので、またつりを何回かしました。
 つぎは、わなげをしました。わなげでも1こ入って、みどりのかみを1枚もらいました。ビーだまを入れるのもしました。クッキーウォークもして、1回目も2回目もおなじところにいきました。
 もとくんが、顔にくもとくものすをかいてもらっていました。とてもおもしろかったです。ほんとうにたのしい1日でした。
名たんていアリクイ 小学部4年 T.H
 アリクイのおりの前で、ベビーカーをおしているお母さんがいます。アリクイがしたをジュジュジュペロペロペロとしています。それを見た赤ちゃんが、ギャーギャーないています。そのお母さんは、三さいで黄色の服を着ている男の子をさがしています。ズボンをはいていません。
 「ンギャー。ンギャー。」
 「ぼうや。どこにいるの。ぼうや。出ておいで。」
 お母さんは、赤ちゃんの子守りで大いそがし。まいごの子どもとぎゃく方向にさがしています。その時、アリクイがおりをたおしておりから出て、まいごの子をさがしに行きました。しばらくたつと、また、アリクイがしたをジュジュジュペロペロペロとしました。せっかくなきやんだ赤ちゃんが、また、ギャーギャーなき始めました。そして、後を向いたそのとたん、
 「ママーッ。ママーッ。」
と、まいごのぼうやの声がしました。赤ちゃんがなきやんでから、またふりかえってみます。と、アリクイの背中にまいごのぼうやがまたがっていました。アリクイは、その子を背中からおろすと、自分のおりに入り、したでおりを直しました。そしてまたしたをジュジュジュペロペロペロとすると、赤ちゃんがわらい出しました。そして、アリクイのおりの前でお母さんがぺこぺこと、
 「ありがとうございます。ありがとうございます。」
と言って、おじぎをしました。それを見た周りの人たちは、動物におじぎをするなんて、とうわさ話をする者もいれば、ワハハハハとわらう者もいます。子どもたちは、
 「名たんていアリクイだー。」とはしゃいでいました。動物園の人はボーゼンとしていました。
ファミリーファンデーに参加して 小学部6年 Y.N
 僕たちは5月13日に、インターナショナルスクールで開かれた「ファミリーファンデイ」に行きました。バスケットボールのフリースローや輪投げなどたくさんの遊びやハンバーガーなどの食べ物が売っていました。
 僕が一番おもしろかったのは、バスケットボールのフリースローです。そのゲームは500ウォンだったのでたくさんやってしまって、それだけで3000ウォンぐらい使ってしましました。しかし、たくさんやったかいがあって、6枚のカードを手に入れることができました。
 僕はゲームに夢中になっていたので、食べ物を買おうと思って一階に行ったときには、すでにたくさんの人がならんでいました。そこで、もう少し時間をおいて出直したところ、前よりも多くの人がならんでいたので、ずっとならんで待つことにしました。やっとの思いで口にしたホットドッグはとてもおいしかったです。
 ファミリーファンデーに参加してみて、景品などをたくさんもらって、とても楽しかったです。次に参加するときは、思い切ってインタビューもしてみようと思います。そして、いろんな国の友達との輪を広げていきたいです。
独立記念公園へ行って 中学部2年 A.M
 私は、5月6日に独立記念公園へいってきた。日帝時代に日本人が韓国人に対してひどいことをしてきたことが写真や模型でありありと表現されていた。説明はほとんど韓国語で、全くわからない私も日本人はものすごくひどいことをしたということはよくわかった。
 しかし、これだけ立派な記念公園なのに日本語訳が全くない。加害者である日本人にわかって欲しいとは思わないのだろうか。「日本人」という存在が嫌いな韓国人も多いから、そういう人たちの反対も多いだろうと父は言っていた。
 私の行ってきた天安の独立記念公園は決して居心地が良い場所ではなかった。はっきり言って写真等を見ていると、日本人であることが嫌になってくる。しかし、是非他の人にも行って欲しい。それは、日本人として事実として悲しい歴史をしっかり受け止めていかなければいけないと、私はそこで学んだからである。

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《 巻 頭 言 》 (平成12年6月)
「社交場としてのムラの学校」実践編
日本人学校で「大人のときめき」をいかがでしょうか
釜山日本人学校 運営委員長
柿 坪 良 造
日本人会会員のみなさまに、2000年6月号日本人会報といっしょに「日本人学校有効利用に関するアンケート」が郵送されました。これは、昨年12月号「広安里」の巻頭のことばで、日本人会理事の田中和志氏が、子どもの頃の懐かしい思い出話とともに、学校がいかに地域社会に密着していたかについて述べられていました。プサン日本人会を、昔育った自分の「村」と考え、その村人たる日本人会の会員の社交場としてプサン日本人学校を位置づけてはいかがかとの提言でした。この提言に積極的に応えようという企画が日本人会学校運営委員会で持ち上がりアンケートを実施することになったのです。日本人会会員が自ら持っている資産を有効活用し、溢れ出る自らの才能を発揮したり、眠れる自らの可能性の発見を通じて「大人のときめき」を呼び起こし、お互いの付き合いの幅を広げる機会を提供し発信していこうというものです。
さて、実践編に入りましょう。あるとき、韓国版キックボクシングの「テコンドー」が極めて上手な日本人会会員の方にムラ人のテコンドーの教師をお願いできませんかとお話したところ、私は超多忙ですから、代わりに、屈強な韓国人の選手を紹介しましょうと、お答えいただいたことがあります。私に対する個人レッスンと誤解されたのかもしれません。私の意図は、その極めてテコンドーの上手な日本人会会員からテコンドーのレッスンを受けることを通じてムラの社交場が盛り上がることを期待したのですが、ちょっとすれ違ってしまった気がしました。今回のアンケートは、日本人会のムラ人がどんな企画に参加したいのか、あるいは興味があるのか、また、ムラ人ご自身が、どんな指導者を努める才能や意欲があるのかといった基礎データ調査を始めさせていただいたというところです。何か自己啓発をしてみたいと考えておられる方、また、何か発信してみたい秘めた才能ををお持ちの方、あるいは発信を躊躇しておられる方、なんでも結構ですから手を上げてみていただきたいと思います。あるいは、こんなことに才能のある人がいますよといった紹介でも結構です。情報をお待ちしています。相互に関心を持ち新たな感動を求める機会を作ることができれば幸いです。
先日、愛知県の一人の中学生が、数ヶ月にわたり、何十回も複数の同級生等から合計5000万円もの多額のお金をゆすり盗られるという不幸な事件が発生しました。警察当局や学校は、事件の兆候の発信を受けていながら、早期に発見し対策をとることができなかったようですし、母と息子の二人だけ家庭はこの事件に巻き込まれながら、相当長い期間にわたり心を打ち明けて相談する人がいなかったようです。事件発覚の切っ掛けは、暴行を受けその怪我を治療するために入院していた時に、隣のベッドにいあわせた人が、異常事態に関心を持ち聞き出すことができたからのようです。こんな事件は、我々の任地たるプサンで発生するとは思いませんが、子供の世界だけに異常事態が発生しているのではなくて、大人の世界にも問題はないのかと反省させられました。もし、私の子供が同じクラスにいたら、または、同じ学校に通っていたら、あるいは、もし、この家族の近所の住人だったらどうしていただろうか。事件の早期解決に役立つことができただろうか。核家族化がすすみ、一家族の人数自体が少なくなっている上に、家族同士の付き合いも希薄になり、まして地域住民のつながりも薄れていることに事件発生の遠因がなかったかどうかと考え始めています。
即ち、地域住民つまりは、村の住民たちがあれやこれやとお互いに関心を持ち交流を重ねていくことによって、この問題は、早期に発見できたのではないかと思っています。そこまで深刻に考えなくてもいいとも思いますが、まずは、大人たち我々日本人会会員は、毎日の仕事で多忙を極めていることを、承知の上で、だからこそ、偏った私的な生活に埋没しているのではないかと反省し、せめてこのプサン日本人会にいるときにこそ、「社交場としてのムラの学校」を、自ら立ち上げ、その活動に積極的に参加し、ひょっとして、意外な人が、意外な技を発揮する「大人のときめき」に期待してみませんか。

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《教職員のコーナー》 (平成12年6月)
価値観 教諭 渡 島 靖 隆
 それは、晩秋の、これまでの私の人生の中で最もゆっくりと時間が流れていた特別な期間の、ある日のことである。

 いつもよりかなり早く目が覚めた。一番乗りである。
「今日は日曜日か。」
 子どものときは、休みの日となると必ず早く目が覚めていたのを思い出した。
 顔を洗って2階(この家は、山の斜面の中腹に位置している関係で2階がメインフロアーで、階段を上がったところにキッチンがある)に上がり、冷蔵庫の中のミルクを1杯飲んだ。2杯目を飲みたかったが、あまり残っていない。
「自分がパックを空けてしまうのはまずい。」
と思ったので飲むのを諦め、グラスを洗った。するとその時、目の前の小窓から見た外の様子に息を飲んだ。そして、急いでリビングを抜けテラスへ出た。
「何もない。」
 いつもならそこに見えるはずの森や草原、そして地平線までもが、白いじゅうたんに覆い隠されていた。白以外には何の色も無く、一切の凹凸もない静寂の世界に自分一人が立っていた。ずっと先までそのじゅうたんの上を、歩いて行けそうな気がした。
 やがて、森の大木のとんがり頭が一つ、二つと見え始め、幻想の世界は終わった。

「今から一仕事手伝ってくれないか? ……。」
朝食の後、家族に誘われ地下室に向かった(はじめてだった)。何を頼まれたのか言葉ではよく理解できなかったが、ドアを開けたとたん、これから何をするのかが分かった。部屋には大きな横長の冷凍庫が二つ、その横にさらに大きなテーブルがあり、丸い円盤形の電動鋸が取り付けられていた。一番近いスーパーまで途中フェリーを利用して100q以上もあるし、この家自体が父親の手作りだから、そんなものがあっても不思議ではないが、その時テーブルにのっていたのは、材木ではなかった。無惨にも皮を剥がれ、内臓を除かれた巨大なムース(へらじか)である。もちろん、家畜のムースなどではない。父親の趣味と実益を兼ねたハンティングの成果である。
 私は、スライスされた肉を数枚ずつ包み、
”CHIPS-3”などと肉の部位の名称と枚数をマジックで記入して冷凍庫にしまうという役割を任された。1頭のムース、時間はそれほどでもなかったが、冷凍庫は一杯になった。
 その日の夕食は、ムースだった。
 翌日、家のまわり(といっても見渡す限り我が家の敷地なのだが)を一人で探索したとき、平地に1本の大木を見つけた。周りにころがっているムースの見事な角や、血の海を見たとき、この大木の重要な役割が分かった。

 これは、1992年秋、機会を得てカナダ西北部の田舎町にホームステイをしながら、現地校で教師のまねごとをさせてもらったときの出来事である。
 国や地方によって気候や風土の違いがあり、それに伴い人々の生き方が違ってくるのは当たり前だが、そうした社会に接したとき、自分の生き方を考えさせられてしまう。しかし、それが人生にプラスになることに、この時はじめて気づいたのかも知れない。釜山日本人学校の子どもたちも、きっとそう振り返る日がくるに違いない。

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《児童生徒のコーナー》 (平成12年6月)
釜山日本人学校のみなさんへ 小学部2年 N.M
 わたしは釜山日本人学校で、今までにいろいろな思い出ができました。クラスのお友だちだけでなく、こう学年のおにいさん、おねえさんといっしょに、ひる休みにドッチボールやこおりおにやけいどろをよくしていました。みんなやさしくて、いつも楽しく遊んでいました。こう学年のおにいさんやおねえさんは、いろいろなことを教えてくれたりもしました。とてもよかったと思います。
 2年生になって年下の1年生が入学してきたときに、こんどはわたしが、小さい子にいろいろ教えてあげようと思いました。そして、年上の人や年下の人といっしょに楽しく遊べました。
 日本の学校に行ったら、もっと人数が多くなると思うので、たくさんのお友だちができたらいいなと思います。日本に帰ってもいろいろなことをがんばりたいです。
 みなさんも元気でがんばってください。さようなら。
かぜをひいた 小学部3年 Y.T
 わたしは、日曜日にプールに友だちとお姉ちゃんと行きました。
 さいしょ、お母さんが送ってくれたけど、仕事があるから帰ったので、三人で遊ぶことになりました。家へ帰ったらせきが出ていました。
お母さんがだいじょうぶだと言ったので、くすりもなにものみませんでした。
 次の朝、少しねぼうをしてしまって、あまり
おきられませんでした。だから、学校に行きませんでした。お昼ごろせきがひどくなっていました。それで、夜ごはんを食べてねました。
 朝になっておきたら、はな水が出ていました。また学校を休んでびょういんへ行って見てもらって、くすりをもらいました。家に帰ってじっとしていると、学校を休んでいるからさびしかったです。
 お父さんとお母さんは、少し早く帰って、わたしが早くなおるように、おいしいカレーを作
ってくれました。できあがって、食べました。でも、お母さんはカレーを食べないできのうのこしたおいしいテンジャンチゲとおかずとごはんを食べていました。食べたあとねていたら、わたしは少しなおった気がしました。それは、お父さんとお母さんが作ってくれたカレーのおかげだと思いました。
小学部最後のキャンプ 小学部6年 Y.T
 私たち5・6年生はキャンプファイヤーの進行役でした。低学年の人たちにも、内容を分かってもらったり、楽しんでもらったりするために、当日まで一生懸命準備したり、練習をしたりしました。
 いよいよキャンプファイヤーが始まりました。みんな一生懸命聞いてくれ、質問もあまりなくスムーズに進行できたので、「今まで練習してきてよかった。」と思いました。そしてキャンプファイヤーの中身も、とてもおもしろく思い出に残るものになりました。1、2年生のスタンツはとてもかわいらしく、3、4年生のスタンツはとても笑わせてくれました。今までのスタンツの中で一番心に残る「マンザイ」でした。
 私たちのスタンツは「マジック」でした。それぞれがマジックを披露しているときに、「あれ、ひもがついてるんだよ。」などという声が聞こえてきたときは、「なんでそんなことを言うんだろう。」と思ったりもしましたが、みんなのマジックが終わった後に、「みんなであれこれ言い合って楽しんでいくのもキャンプのおもしろさだ。」と思い、また一つ勉強になった気がしました。
 キャンプ二日目は、オリエンテーリングがありました。先生によると、この活動は「自然を見よう! 自然を大切にしよう!」というねらいがあるということでした。そして一番大切なことは、グループの協力を生かしながらクイズを解いていくことです。 スタート前に先生から水の入ったペットボトルをわたされて、その重さを考えました。その時私は「きっと重さを計る問題がでるんだ」と思いました。行動開始の時、グループのみんなで相談して、どこから行くかを決めてから出発しました。
 「?」と書いた問題は少し考えましたが、洋君が「まわりに答えが書いてあるよ。」と言ってくれたので、答えは「松ぼっくり」だと分かりました。あとは5個で200グラムの石を集めたり、砂を300グラム集めたりする問題もありました。
 ゴールして、それぞれのグループがどれだけ合っているか点検をしてくれました。砂も石もほとんど正解に近い数字で、私たちのグループは想像もつかないような高得点が取れてびっくりしたけど、優勝できてとてもうれしかったです。
 しかもこのオリエンテーリングで普段では味わえない体験ができたし、みんなと協力して問題を解いていけたのでよかったです。
 私は山でのキャンプは初めてだったので、特に山の自然にふれ、大切にできたと思いました。今回は、リーダーとしての責任を感じて、人を頼りにしすぎたらいけないということも勉強になりました。それに、キャンプは楽しくてみんなと協力できるだけではなく、いろいろな勉強をするところでもあるということが分かった気がします。小学部最後のキャンプとして、楽しいキャンプになったと思いました。
体験旅行に行って 中学部1年 H.A
 僕にとって、この3日間は、「あっ」という間でした。とてもおもしろかったです。
 僕が、この体験旅行で印象に残ったことは、2つあり、ビエンナーレと共生園です。ここでは、共生園についてふれます。
 共生園で、園長先生の話を聞きました。以前に僕たちが送った質問を通して、話をしてくださいました。その話を聞いて、僕は、「園長先生の人生は、すごいなあ。」と思いました。(まだ若いのに…)
 まず第一に、ここの子どもたちは、ほとんど親というものがいません。つまり、園長先生が、親になるわけで、誕生日なども140人分のケーキが、ひと月ごとに必要になります。すると、園長先生は、あちこちのケーキ屋さんにたのんで歩くのだそうです。
 そして、毎日、世話をし、酔っぱらって子どもに会いに来た親にも耐えながら、暮らすのもすごくたいへんです。
 そして、その140人を大人になるまで育てるのです。このようなことを体験旅行を通して、聞かせてもらい、共生園の子(子といっても、僕より大きい人ばかり)と遊び、とてもよい経験ができました。
 今度は、共生園の子たちが、釜山日本人学校に来てもらいたいです。

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《 巻 頭 言 》 (平成12年7月)
広がれ 子供たちの輪! 木浦共生園  園長
田 内  緑
 6月のある晴れた日、釜山日本人学校中学部の皆様が体験旅行で共生園を訪れてくださいました。昨年の学習発表会で、「あした木浦にて」という劇を演じてくれた生徒の皆さんの訪問です。
 共に登った儒達山、それぞれの文化紹介、一生懸命歌った合唱、それぞれの個性が光ったかくし芸、心を一つに汗を流したバスケットボールとドッヂボール、フォークダンスなど、様々な交流を通して、日本文化に触れ、共に過ごした時間は、共生園の子供たちにとって、とても大切な経験となりました。
 釜山日本人学校との出会いは、今から約1年前の8月。全羅南道を襲った激しい台風8号の影響で、ぼろぼろになっている園を訪問して下さった、3人の先生方との交流から始まります。先生方の共生園に対する関心は、途方に暮れていた私たちに元気と希望を下さいました。そして、子供たちの心に芽生えた「いつか釜山に行って、日本人学校の子供たちに会いたい!」という強い想い。
 子供たちの願いは届き、交流は続き、先生方の熱心な努力の結果、ついにこの夏休みには、皆様のお宅でのホームスティが実現されることになりました。知らせを聞いて、一番喜んでいるのは子供たちです。はじめて訪れる釜山、日本のご家庭でのホームスティが楽しみで、出発日を今から指折り数えております。この場をかりて、共生園の子供たちに貴重な機会を提供して下さいますホストファミリーの皆様、そして釜山日本人学校の皆様に心より感謝申し上げます。
 私は、幼稚園から小学校3年生までの4年間をソウル日本人学校で学びました。日本人学校と聞いてまず思い浮かぶのは、とても熱心に教えてくれた先生です。今では日本語に何不自由ない私も、幼い頃は韓国語の方が得意で、日本語の授業は、ついていくのに必死でした。そんな私の様子を察した担任の先生は、毎日先生の自宅で日本語の特訓をして下さいました。先生の熱心な教えのお陰で、私は気後れすることなく、日本語での生活になじむことができたのです。
 釜山日本人学校にも、情熱をもった素晴らしい先生方がいらっしゃいます。そして、そこには私と同様、幸せな生徒がいます。生徒のため、教育のため、現地理解のため一生懸命働いている先生方がいらっしゃることをとても誇りに思います。これからも、釜山の時間、三校交流会、また共生園の子供たちとの交流などを通して、心豊かな、異なる文化を理解、尊重し、受け入れることのできる、真の国際人を育てて下さることを期待しております。
 木浦共生園も、未来の新しい歴史を創っていく子供たちに、自分の判断を信じる大人になってほしい、国の枠をこえたものの見方で、少しでも未来を変えてほしい、という願いを込めて、これからも韓国の子供たちに正しい日本、日本文化を伝えていきたいと思っています。そして、共生園を訪れて下さる日本の方々にも、韓国という国、文化を伝えていきたいと思います。
 この6月、南北首脳会談が実現し、和解の第一歩を踏み出しました。日本と韓国が、北と南が、そして一人一人が和解し、共に生きるように願っています。

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《保護者のコーナー》 (平成12年7月)
1学期をふりかえって 小学部1年 保護者 Y.N
 釜山へ来て早3ヶ月が過ぎました。家族全員が新一年生のように新たな生活をはじめ、最近では“アンニョンハセヨ”が違和感なく言えるようになりました。(子どもが一番うまく発音しています。)
 いろいろな学校生活の中で特に、キャンプに参加できたことで、マイペースながら逞しさが出てきたように思います。
 これからもこの地釜山で、ゆっくりと歩んで行けたらと思います。
Y.F
 着慣れないスーツにネクタイ姿。でも本人は鏡を見て、「わあ。お父さんみたい。」と嬉しそうだったのが思い出されます。
 入学式当日、「どんなふうに入場してくるかな?」という私の心配をよそに、緊張もせず、意気揚々と入ってきた息子。3年前の入園式で、母親と離れられず、泣き叫んでいたのがうそのようです。
 2年間こちらの幼稚園へ通ったのですが、やはり言葉が十分理解できなかったので、友達も少なく、卒園の頃は毎朝、「行きたくない…。」といいながら支度をするあの子に、「修ちゃん、がんばって卒園して、日本人学校に行こうね…。」こんな会話が続きました。ですから今嬉しそうに学校へ出かけ、元気に帰ってくるのが本当になりよりです。
 上級生のお兄さん、お姉さんを「○○君」「○○ちゃん」とまるでお友達のように話すので、少し戸惑ってしまいますが、それは少人数の日本人学校の良さでもあるのでしょう。
 ただ一つ残念なのはこの学校に1年しか通えないということでしょうか。先生方にはいろいろな形でお世話になっていると思いますが、親子共々感謝しつつ、この1年間を大切に過ごしたいと思っております。今後ともどうぞよろしくお願いします。
 1学期をふりかえってみると、4月に入学、5月に家庭訪問、6月キャンプ、7月水泳教室さらにPTAの会合など親にとってもあっという間の1学期でした。
 私自身もなにもわからず、子どもとともに勉強してきた毎日でした。学校に行って友だちと勉強やいろいろな規則を体験して、団体生活という意味が少しわかったのかなと思うときがあります。
 たった4ヶ月ですが、ふとしたときに少しずつ大人になっていく娘を見て、どきっとすることが多くなりました。
 2学期は少し私の方が肩の力をぬいて、子どもを見つめていきたいと思います。
K.S
 2000年の4月だ…。ピッカピッカの1年生だ。さあガンバロー!
 私たち親子は入学時に校長先生はじめ教頭先生、諸先生方には大変お世話になり誠にありがとうございました。
 元気よく無事に入学して、えーっもうすぐ1学期も終わりですかねエ……。さあ夏休みだ。1学期をふりかえってみれば苦しかったことや楽しかったことがいっぱいありました。 
 たとえばキャンプや水泳教室にと毎日の登下校にも一度もいやな顔もせず、元気に通学してくれました。又、妻も朝早くに起きてお弁当を一生懸命に作って、子どもに持たせてやる姿を見て、「ご苦労さん。」と大きな声でいってやりたい気持ちで心より感謝しています。私の家庭だけでなく、全校のお母さん方にご苦労さんでした、と心中より御礼を言いたい気持ちでいっぱいです。
 後先になりましたが、本校の校長先生、教頭先生又他の先生方本当にお疲れさまでした。ありがとうございます。また、2学期もがんばってよろしくお願いいたします。
 最後に、夏休みみんな元気でね。2学期には元気な笑顔でお会いできる日を楽しみにあいこもがんばります。
U.S
 はじめての学校生活に小さな胸をいっぱいの希望でふくらませて入学した4月。慣れない海外での生活の不安もちょっぴりあったことでしょう。
 早いもので、もう1学期が終わろうとしています。真っ白だったキャンバスにたくさんの思い出が描かれました。
 初めてのキャンプ。苦しい山登りも初体験。いつもは、座って待っていれば出てくる食事も自分たちの手で。親元を離れて寝るのも初めて。楽しい思い出と苦しい思い出を抱いて帰ってきたときの子どもの顔はキラキラと輝いていました。たった2日間でしたが、わたしには、ひとまわりもふたまわりも成長したように感じられました。
 親子で参加した造形大会。体中ペンキだらけになりながらも、夢中で筆をにぎっている真剣な子どもの姿は今でも心に残っています。出来上がりもさながら、子どもにとっては、すばらしい「宝物」になったことでしょう。
 わずか3ヶ月ですが、ここには書ききれないほどのいろいろな体験を通して、心も体もたくましく成長しました。子どもが寝静まったあと、毎週担任の先生からいただいている学級だよりをめくりながら、確かな成長の足跡を実感している毎日です。

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《児童生徒のコーナー》 (平成12年7月)
ぞうけいたいかいのこと 小学部1年 Y.N
 きょうぞうけいたいかいがあったよ。からだにあおをぬったよ。まんなかにぴかちゅうがいたんだよ。
 つぎにかおをぬったよ。はだいろでぬったよ。とちゅうまでせんせいといっしょにぬったよ。
「はみださないでね。」
と、せんせいがいったよ。
 できあがったとき、ぼくはつかれてのどがかわいたよ。
ぞうけいたいかいのこと 小学部1年 Y.N
 きょう、ぞうけいたいかいがあったよ。いちばんさいしょはかおをぬったよ。はだいろでぬったよ。ちょっとはみでたけど、うまくぬれたよ。
 つぎにくつをぬったよ。くつはあおでぬったよ。
 「はみだしちゃいけないでしょ。」
とおかあさんがいったよ。
 みんなじょうずだな、とおもったよ。
1学期の反省 小学部4年 S.K
 私が1学期にできたことは、まず1番に、さか上がりです。3年生の時、一番ひくい所で1回だけできたことがあります。それが4年生になって自力で数回できました。それでも、できないときもあります。でも、とてもうれしかったです。
 2番目はミニ漢字テストで12回連続百点をとったことです。3・4年学級では、国語の時間にほとんど毎回、ミニ漢字テスト10問をします。その点数を漢字ちょ金通帳にためていくのです。私は今3810円たまっています。だから2学期は、6000円ぐらいまでいきたいです。
 最後に、悪いことです。それは目ひょうが守れなかったことです。その目ひょうとは、『月・火・木曜日は家で漢字練習をする』というものです。できた日もありましたが、3分の1はできませんでした。宿題が多い日は、
「今日は宿題が多かったから明日やろう。」
と思ってもけっきょく次の日やらなかったり、
「今日は宿題に漢字練習をやったからいいんだ。」
と思ったりしました。一番悪いのは、
「今日は宿題が少なかったんだから、ついでに漢字もやめておこう。」
というものです。宿題が多かったらやらない、宿題が少なくてもやらない。私は、わがままと三日ぼうずと中と半ぱがまざったような自分にちょっとあきれます。
 2学期はこのようなことがなかったらいいのに、と思います。
木浦共生園に行って 中学部3年 M.S
 今年の体験旅行は、今までの体験旅行とは少し違いました。それは、昨年度中学部が演じた劇の舞台である共生園に行って、自分達の目や体で確認してきたことでした。
 初日は、田内緑園長先生から進路や福祉に関するお話を聞きました。お話のなかで一番心に残ったのは「家族」という言葉でした。共生園のこどもたちは、「家族」のモデルを知らないと言われていました。私たちにとって当たり前と思っていることでも、共生園の子供たちにとっては決してそうとは限らないということを知りました。
2日目は、共生園にいる中学生たちと交流会を行いました。みんな、とても明るく生活しているのにとても驚かされました。ペアをつくって様々な交流行事をしました。(儒達山を登りながらの木浦市内の紹介・スポーツ・フォークダンスなど)。優しく接してくれて、みんなの心の温かさと広さを感じました。私にとって、とても良い経験になりました。
 最終日、光州に移動して課題選択学習を行いました。私と秋山さんは、独立歴史館に行って光州事件のことを調べました。管理人の方が、わからないところを親切に教えてくれたのでとても助かりました。光州事件は当時の日韓の学生が中心に起こした事件でした。その後、韓国中に広がり、とても大きな事件になったそうです。一番印象に残ったのは、日本の国旗を持って撮っている記念写真でした。まさに日帝時代の様子がわかる写真でした。
 今回の体験旅行を通して、少しですが韓国の歴史について知ることができました。それにもまして韓国人の友達が作れたことが、私にとってとても大きかったと思います。いつの日か、再び共生園に行ってみんなと会えればと思いました。

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《 巻 頭 言 》 (平成12年8月)
PTA会長としての抱負 釜山日本人学校 PTA会長
  澤井 憲一
 7月よりPTA会長という重責をお引き受けすることになりました。
 これまでは、吉村保雄前会長が誠心誠意支えて、役員の方々と一緒に本校のPTA活動を盛り上げてくださいました。そのご功績に感謝するとともに、今後も同じように、「明るく、正しく、たくましく」PTA活動が続けられるように、がんばりたいと思っていますので、どうぞ皆様のお力添えをお願いいたします。
 今年の10月で、25周年を迎える釜山日本人学校は、誰にでも自慢できる学校だと思います。
 「生きる力(自ら課題を見つけ、積極的に解決に取り組む力)を備えた子ども」を育成するという教育方針が、時代を超えて受け継がれてきています。国際的視野に立った教育を実施することにより、日本国内ではできないことを子どもたちは経験できています。これからも時代に流されること無く良き伝統を守り続けられるように、PTAとして努力してまいりたいと思います。
 「主役は子どもたちではないか」「子どもたちにとって、何が今一番必要か」「そして、そのためには親として何ができるのか」といった問いを、常に持ち続けていきましょう。 
 先生方が、子どもたちを教え導く立場なら、保護者は、子どもたちを応援し、育てる立場です。体の成長とともに、心の成長もめざましい時期に、のびのびと学校生活を過ごせるように、いつでも心の窓を開いて語り合える環境を作っていけたらと思います。
 これからは運動会、バザー等、今年度の主となる行事が控えております。皆さん一人一人の意見を尊重するとともに、全体を見渡す視点を持って行動していけたらよい、と思っています。

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《教職員のコーナー》 (平成12年8月)
お茶の話 教諭 小松崎直美
私の故郷である埼玉県の南部には、入間市を中心に所沢市や狭山市などにまたがって「狭山茶」の産地があります。市街地をぬけると、茶の木が広がり、防霜ファン(扇風機みたいなもの)があちこちに立っている所が目に付きます。日本の茶どころといえば、数ある中でも静岡が第1ですが、『色は静岡 香りは宇治よ 味は狭山でとどめさす』と茶摘み唄にあるように、狭山茶農家の方々は、味に自信をもっています。
 日本人にとって「お茶」の代表は、「抹茶」であると思うかもしれませんが、普段私たちがよく飲んでいるのは「煎茶」です。煎茶は値段も安いものが多く、日頃よく飲まれている庶民的なお茶です。食後はお茶を飲まなければ気が済まない、という人もいるのではないでしょうか。お茶を飲む風習は、鎌倉時代に中国から伝わり、室町時代に人々の間に広まったそうです。 千利休がお茶の作法を「茶道」として広めたのは有名ですが、これは、抹茶を飲む作法です。一方、江戸時代中頃になって中国の煎茶の文化が文人から庶民へと広まっていき、「煎茶道」という作法が生まれました。煎茶道は、江戸時代の終わりから明治・大正時代にかけて盛んに行われたということです。今では簡単に入れて飲んでいるお茶(煎茶)にも昔には、茶道(抹茶)同様、「和敬静寂」の心を大切にしたお点前が存在していたのです。約800年前、中国から茶作りを伝えた僧栄西が、「茶は養生の仙薬」と言ったように、昔は茶を薬としても飲んでいたのだそうです。現在、昔から伝えられてきたお茶の体によい成分が、次々と研究され、明らかになっています。
@ガンの予防になる
A虫歯・口臭予防になる
B疲労回復になる
C食中毒の予防になる
Dかぜの予防になる
E高血圧・動脈硬化の予防になる
F健康を保つ
以上のような効果があるので、毎日飲もうと思っていますが、実は私はコーヒー党なのです・・・。
 お茶の種類を大きく分けると、緑茶・ウーロン茶・紅茶の3つに分けられます。だいぶ前のことになりますが、日本でウーロン茶が流行し始めた頃、私は、ウーロン茶も緑茶も同じ葉から作られていると知り、びっくりしたことがあります。作り方によって同じ葉から色々なお茶を作ることができる訳なんですね。(下図参照) 地球レベルで見た主な産地は、緑茶は日本や韓国、ウーロン茶は中国、紅茶はインドやスリランカです。そこで、言語を調べてみると、日本が「ちゃ」、韓国も「託」、中国も「茶」。インドでは紅茶が「チャイ」。国が違っても、茶は“チャ”なんだということがわかります。茶の実とともに名前もそのまま伝えられたのでしょうが、日本人にとって欠かせないお茶が、ここ韓国にも、また、他の国にも『同じものが同じ名前で存在していること』に、いささかの感動を覚えています。また、これらが、世界中に広まって、「チャ」や「ティー」として飲まれているわけですから、ちょっと短絡的ではありますが、世界中の人々が「茶」でつながっている気がしてきて、私はなんとなくうれしくなってしまうのです。

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《児童生徒のコーナー》 (平成12年8月)
二学きのもくひょう 小学部2年 S.I
 わたしのもくひょうは、すぐならったことをおぼえてしまうことです。つぎの日になると、きのうならったことをわすれてしまいます。ほかのことが気になると、すぐにわすれてしまいます。そのことが思いだせないこともあります。そのくせをなおしたいです。二学きは、できるだけわすれないようにしたいです。
二学期にがんばる事 小学部3年 M.M
 二学期にがんばる事は、生活面、学習面、両方にあります。
 まず、生活面では二つあります。一つ目は時間を守ることです。今までは、ぼうっとしていたり、しゅうちゅう力をなくしたり、いろいろ直さなければいけない事がありました。
 もう一つはせいりせいとんをきちんとやる事です。一学期は、つくえの中がぐちゃぐちゃで、ロッカーから物が落ちたりする事が多くて、
(あっ、気をつけなきゃ。)
と、思っていました。
 学習面では、問題をよく読むことです。一学期は、問題をよく読んでいなくて、95点とか90点とか85点とかがとても多かったので、まちがっていた所を直しても、またまちがえるのがとてもいやでした。
 読書も、もちろん「読書の秋」ですから、大すきな本をたくさん読みたいです。
 二学期スタートが楽しみです。
Very goodだった夏休み 小学部6年 H.H
私が夏休み一番楽しかったのは、カナダへ行ったことです。カナダに行って一番よかったことは、学校へ行って友達がたくさんできたことです。年の差など関係なく、誰とでも友達になれたことです。日本人や、ブラジル人、台湾人などいろいろな国から来た人がいました。
 先生の名前は、クリースティ、エリカ、パメラといいます。私は、クリースティとエリカに教わりました。クラスにおもしろい人がたくさんいて一日一日がすぐ過ぎてしまいました。友達には、あゆみ、もえ、ともみ、まゆみ、なおみ、ますみ、みずえ、かおり、けいこ、りかなどたくさんいました。最後の週の水曜日にグッバイパーティーが学校でありました。pizzaを食べたり、みんなでお話ししながら遊んだりしました。その日は家に帰ると午後11時をすぎていました。とても楽しかったです。
 学校では、英語だけで、英語をしゃべらないと追い出されると言うきびしいルールもあった
けれど楽しかったです。最後の日曜日は、寿司屋さんへ行って友達とまたグッバイパーティーをやりました。その日は、夜遅くまでみんなで遊んでいました。最後のディナーをホームステイのおばさんといっしょにできなかったのが残念でした。最後の週の金曜日には、12人が帰ってしまい学校はがらがらになってしまいました。
 英語の勉強もたくさんできたし、わがままな自分の性格も一ヶ月いて少し直ったなぁとも感じました。あと、甘えん坊な性格も結構直ったと思いました。そこに行って本当によかったなぁと思いました。また行きたいなぁと思います。
2学期を迎えて 中学部2年 K.T
 夏休み、ソラク山へ行き山登りを楽しみ、日本に行き勉強も何もせず1日中ダラーとテレビを見て過ごし、後は自由気ままに過ごしていたけれど、ついにちょっと楽しみにし又ちょっと嫌がっていたあの日がきてしまいました。
『夏休みは楽しかったですか?』
そう校長先生がみんなに問いかけられました。そう、ついに夏休みが終わりました。そしていよいよ2学期スタート。2学期は1年を通しても一番忙しくなる学期です。運動会、ナザレ園訪問、学習発表会などなど。更に行事の間が余り空いていないためになおさら大変な学期です。
 僕は、今年の運動会の応援団長に選ばれました。思ったよりも練習もハードで大変です。しかし、だからといって勉強をしないのではなく、毎日応援の練習もし、そして少しでもその日の復習をしていきたいです。(運動会まで)
 生活面の目標は、簡単なようですが僕にとって超難しい・早寝、早起き・です。今まで守れていなかったので、今学期からは、テレビなどの誘惑に負けないよう頑張るつもりです。とにかく勉強面にしても生活面にしても立てた目標は守れるよう最善の努力をしていきたいです。
 さらに読書の秋といわれるこの時期、今まで余り手にする事のなかった本という物を少しでも読んでいきたいと思っています。

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《 巻 頭 言 》 (平成12年10月)
日本人学校という温室 釜山日本人学校長
菊 田 藤 明
 今世紀最後のオリンピックシドニー大会が終わりました。日本選手は柔道・女子マラソンなどで活躍をしましたが、陸上種目などは自己ベストの記録を出しても、世界のレベルにはまだ遠い種目が多くありました。国内では一流選手でも、世界に出るとまだまだ高い壁が立ちはだかっているという感じです。世界に通用するには、国内に留まらず、広く世界に出て競技会に参加し、その経験を基に練習に励む必要があるようです。
 ご存知の通り、本校は、小・中学生合わせて30余名の小規模校です。しかも、日本国内ではなく海外にある学校です。ですから、国内の学校に比べて、教育活動を進めて行く中で、地域の人々の協力に対して言葉の壁や学校が意図する施設見学等に制約があり、苦労している部分があります。このような状況は、海外にある日本人学校では、多かれ少なかれ持っています。特に韓国という国にある本校の場合は、過去に歴史的な背景をもち、創設以来、学校の存在が周囲に目立たないように、ひっそりと教育活動を行っていた時代が数年前まではありました。しかしながら、その間も、関係者の努力のお陰で、現地との交流を続け、今日では政治状況の変化等、学校を取り巻く状況も随分良くなってきたと思っていますが、現地社会とは隔たったところに学校が存在している事実には変わりありません。このような事を考えてみますと、本校だけでなく在外にある日本人学校は、学校自体がある種、温室のような存在と言えるのではないでしょうか。
 学校を温室と捉えてみると、子供たちはその中で、お互いに助け合ったり、励まし合ったり、時には、上級生が下級生を優しく教えたりしながら、家庭的な温かい雰囲気の中で学校生活を送っています。そして、自分自身を高めたり、高学年としての自覚を育んでいったりしています。行事を行うにしても、必ず自分自身の役割が有り、自分の存在感を自覚出来るという良い面があります。それが本校の良さだと感じています。 
 ところで、俗に人を表現する言葉として「井の中の蛙」とか「温室育ち」という言葉があります。世間知らずの人や耐性の無い人を指してよく使われます。本校の子供たちが「井の中の蛙」や「温室育ち」だとは思いませんが、学校や子供たちを取り巻く環境は、残念ながら、温室と言っても過言ではないような気がします。また、格言の一つに「切磋琢磨」と言う言葉があります。この「切磋琢磨」と言う言葉には二つの意味があります。一つは、たゆまぬ学問修業によって、自分自身の素養を磨き上げ、人格を向上させること。もう一つは、仲間同士が互いに競い合って、学徳を磨き人格の向上をはかることの二つです。一つ目の意味については、伝記などの本を読んだり、学習したことを自分なりに調べて深めたりするなど、自分自身が常に向上心を持って努力すれば、それなりに努力の成果が得られると思います。問題は、二つ目の意味の仲間同士が競い合うという点です。日本の学校で学んでいたとき「あの子には負けたくない。」と思って頑張ったことはきっと子供たちの中にあると思います。私自身も小・中学生のころそのような気持ちで頑張ったこともあります。しかし、こうした気持ちを持たせるには、ある程度の人数が必要だと思っています。国内の学校では1学級に35名前後の子供がいます。先生方は、子供たちが学習目標を達成出来るように、一斉学習やグループ学習など、大小様々な学習形態や資料等を活用して指導にあたっています。その中で、子供たち同士、お互いの考え方を話し合いながら、自分の考えを広めたり、深めたりしています。この1学級35名前後の人数だと、それぞれ考えの異なる子供同士が学習しますので、自分を向上させようとするには都合の良い人数だと思います。しかし、本校のように1学級が4〜5名程の学校では、小グループイコール学級全体ですから、お互いに競い合うことに難しい場面が時にはあります。勿論、4〜5名の中でも競い合うことは出来ます。それでも、自分の今の力を客観的に捉えるという面やライバルとして頑張ろうという気持ちを起こさせる友達に出会えるかという面では、人数が少なければなかなか難しい点があります。ですから、この事を考えると、時には温室から出て、外の様子を自分自身肌で感じる必要があるのではないか思います。そのためには、これまで行ってきた三校交流会などとは別の、子供自身が自分の力をもう少し多い人数の中で捉えることが出来る新しい交流の場を設定する必要があるのではないかと考えています。そうすれば、子供たちは自分の力を、多くの仲間の中で捉え直すことができ、更に頑張ろうとする気持ちを育むことが出来るのではないかと思うからです。
 釜山日本人学校で育った子供たちには、将来世界に羽ばたくような活躍をして貰いたいと願っています。と同時に、学校としても、そのような人間に成れるようにするために、どう学習環境を整えて行くかが大きな課題だと、オリンピックのシドニー大会をテレビで見ながら思ったしだいです。

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《教職員のコーナー》 (平成12年10月)
一夜、思いにまかせて 教諭 十河 聖司
 釜山に赴任してはや半年が過ぎました。日々出会う「ひと・もの・こと」とのかかわりの中で、とまどったり、驚いたりしながらその新鮮さを楽しんでいます。こうして韓国に暮らしてみると、隣国のことをあまりにも知らなかったことを痛感します。これまでの歴史の中でも、韓国と日本はさまざまなかかわりを持ってきました。もちろん悲しむべき事実もあります。このことは、今年の夏ソウルに旅行した時に、目の当たりにしました。
 一方日本にも、韓半島の文化の影響を受けたものがあります。その一つが、現存する日本最古の歌集と言われる「万葉集」です。歌の形式や素材に類似性が見られることは、多くの学者の語るところです。
 「万葉集」は、私の好きな歌集です。専門歌人といわれる人々が作った歌よりも、東歌や防人歌に詠まれた庶民の素朴な叫びが心に響いてきます。韓国でも、古くから庶民が喜怒哀楽を口ずさんできたに違いありません。
 ここはある山村。男は新しい街道を切り開く夫役にかりだされ、家をあとにしようとしていた。旅支度をととのえ、いよいよ出立、家族との別れである。妻は夫の衣の紐を結ぶ。どうか無事に帰ってきますように、どうか安らかな旅でありますようにと祈り、我が魂をその結び目にこめた。当然、当時の旅とは死を覚悟してのものであった。
  信濃路は 今の墾道
     刈株に 足踏ましなむ くつはけ我が背
 妻は、常には裸足で過ごす夫に、粗末なぞうりを準備し、「信濃への道はつい最近切り開かれた道です。きっとごつごつした岩が転がっていることでしょう。きれいに踏みならされないで、大小の切り株も残っていることでしょう。どうか切り株や石で足を痛めなさいますな。くつをはいてお行きなさい。あなた。」と詠う。男は苦しい長途の旅を思い、家族への思い絶ちがたく、後ろ髪を引かれる思いで家をあとにする。戸口では父母が手を振り、子どもは着物の裾に取り付く。妻は小さな荷物を手に後に続く。
 見通しのきく河原まで来て、「ではここで・・・」と一言二言、言葉を交わし、男は向きを変え、歩き始める。妻の結んでくれた帯の結び目に手をやって、時々後ろを振り返りながら。妻は「後ろ姿の見える限りは」と、ひたすらに手を振り続ける。やがて男の後ろ姿は点となって妻の視界から消える。妻はしばしそこに立ちつくし、
  信濃なる 千曲の川の 細石も 
      君し踏みてば 玉と拾わん
「この河原のなんでもない石ころも、あなたがお踏みになったものならば、美しい宝石のように大切にしましょう。」と詠う。
 男は早く帰りたい、家族と一緒に暮らしたい、という一心で先を急ぐ。峠の頂に立った男は、過ぎ来し方を振り返り、自分の家の方角を望む。自分の生まれ育った故郷の風景をできる限り記憶にとどめようと一心に見つめる。そして、思わず我が家へ向けて大きく手を振った。ちぎれるほどに。
  足柄の み坂に立して 袖振らば 
     家なる妹は さやに見むかも
 もちろん、彼の手を振る姿が家にある妻や我が子、父母に見えようはずがない。しかし、男は力一杯手を振らずにはいられなかった。再び見ることがないかもしれない懐かしい風景を前にして。腹の底からこみ上げる思いでもう一度手を振り、ごつごつしたこぶしで眼をぬぐい、ふっきるように足早に峠を下った。
 配給の粗末な食事に粗末な寝所。そして、終日の重労働。家族を思い、故郷を思いながら倒れていった仲間を幾人も目にしたことだろう。
 帰郷が果たせなかった仲間にことづかった言葉と品物を家族に届けようと遠回りをし、疲れ切った体を休めることもなく、数カ月ぶりの故郷へ。ひたすらに歩む。ただひたすらに。
 山が見える。懐かしい山容だ。風の香りだ。あの峠を越えれば我が故郷だ。妻の顔が、我が子の声が、父母の笑顔が、あたたかい食事が思い浮かぶ。もう一息、もう一息。
 いにしえの万葉人の思いをこうして自分勝手に幻想することも歌の楽しみ方の一つだと思っています。歌に詠まれる詩情は、国や民俗を越えて重なり合うのではないかと思います。太古の光源から発せられた光は時空を越えて、今を生きる私たちを照らし続けます。過去に生きた人、そして今を生きる人の心に思いを馳ながら、「ひと・もの・こと」と豊かにつながって暮らしていきたいと思います。

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《児童生徒のコーナー》 (平成12年10月)
うんどうかいのこと 小学部1年 A.S
 せんせいあのね。
 おととい、うんどうかいのふうせんわりげえむで、あいこちゃんかぞくのふうせんをわろうとしたけど、かあさんが、 「とんだらわれないよ。」 といって、かあさんはとぶばかりで、じぶんのふうせんをわってしまいました。  おもわずあやねは、 「なんでかあさんわるんよ。」 と、いいました。  あかぐみゆうしょう、といっていたら、ほんとうにあかぐみがかったから、ちょうらっきいでした。
 つぎもあかぐみゆうしょうをがんばりたいです。
八十メートル走 小学部4年 A.M
 足がぞくぞくしている
 パーン!
 手をおもいっきりふった
 かみがぬけそうになった
 太郎君がマッハでおいあげてきた
 「がんばれ。」
 白組のおうえんがきこえる
 
 ゴールテープを切った
 両手をあげて
 ガッツポーズした
 金メダルをとったみたいだ
ヨッシャー 中学部1年 Y.S
 「赤組、優勝です。」
 僕は、この言葉を聞いたとき思わず、
「ヨッシャー。」
とさけんでしまいました。なぜなら、綱引き以降得点が出ず、勝っているかどうか不安だったからです。だから、喜びも倍増し、気がついたら叫んでいました。
 思えば、2学期が始まって1ヶ月間、運動会のことばかり考えていました。僕は、初めての応援リーダーということと、小学生時代の僕が入ったら負けるというジンクスをうち破るために、とても燃えていました。
 特に力を入れていたのは、応援合戦です。練習初日の日は、どうなるかと思ったけど、赤組全員で力を合わせ本番では最高のできでした。
 中学生になって初めての運動会で優勝できたので、これからは、僕が入ったチームが勝つという新しいジンクスを勝手に作り、来年も優勝したいと思います。
「好 天」 中学部3年 Y.M
その日は晴れました。前日までの天気とはうって変わって、今年も運動会は青い空の下で行えました。
 最初の競技は定番の「100m走」でしたが、私はゴール寸前で足を痛めてしまいました。とても痛かったのですが、私が休むと皆に迷惑がかかってしまうので、あとの競技にも我慢して参加しました。「障害物借り物競走」では、はじめは1位でしたが、勝利の女神は私に味方しなかったのでしょうか、借り物で一気に落ちてしまいました。今年新たに加わったハードルくぐりがおもしろかったです。
 何と言っても1番心に残ったものは「応援合戦」でした。運動会当日は袴をはいていましたが、とても動きにくく(特に腕)内心あせっていました。白組全体としては、とても上手に演技できたと思うのですが、はじめに扇子を落としてしまい、皆に迷惑をかけてしまいました。
 恥ずかしい思い出に「パン食いレース」があります。ジャンケンを1回で勝てたのは良かったのですが、パンを取る時に吊してあったヒモに体当たりをしてしまいました。ゴール時に笑い声がして気になったのですが、体当たりした際にほとんどのパンを落としてしまったと聞かされ、とても恥ずかしかったです。悪気はなかったんです…ゴメンナサイ。締めくくりの「紅白対抗リレー」では、白が勝ちました。私自身、足はもう限界に近い状態でしたが、最後まで走りきることができてとてもうれしかったです。 総合結果、私の所属する白組は負けてしまいました。でも、勝敗よりも、釜山日本人学校生活最後の運動会に思いっきり参加できて、私の気持ちは、当日の「好天」のようにすこぶる良かったです。

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《 巻 頭 言 》 (平成12年11月)
近頃 親として思うこと 学校運営委員
 樋口  強
 「広安里」の原稿依頼を受けて、教育について自分が今まで、感じたこと・考えたことを、改めて思い直す機会となりましたが、父親として「自分の子供はどうなのか」と考える時、原稿にして申し上げるのが憚れる気持です。
 釜山日本人学校においては、少人数で上級生が下級生の面倒を良く見て、非常に家庭的で、まとまっており、いじめの問題とかは、皆無であると思いますが、昨今の日本の高校生等の起こす事件というものが、あまりにもショッキングで、また高3の息子を持つ身としては、「何がそうさせるのか」といつも思うこの頃です。
男親は、(娘については分からないが、)息子については理解できると、いつも思ってきたし、自分が歩んできた道だから、という自負心もあるのだが、いざ息子と向き合って話す時、30年の年齢差は如何ともし難く、時々異星人ではないかと感じることすらあります。
しかし、この異星人たちが、次世代をになっていくのであることは間違いなく、また世の中を変えていくのだし、より良い世界を作っていくのだと思います。
 いつの時代にも、親たちは、「近頃の若者は…」といって批難して来たものであり、我々の時代もそう言われつづけてきた記憶があるので、私自身は、「近頃の若者は…だめだ」とは全く思いませんが、昨今の若者の風潮「言葉づかい・けじめのなさ・自己中心的な考え方等」を思うに、昔とは確かに違ってきているものがあることを感じます。
 先日の新聞に、最近の高校生たちの多くが「自分で考えることはナンセンス」で、もっぱら外部の動きに「流される」、「合わせる」だけで済ませようとしているという調査結果が出たとか、「現在のあなたの考えは」の問いに「先のことは考えず今をエンジョイする」と答えた日本の高校生は52%で、他国を圧倒しており、米国は22%、中国は11%であったという記事が出ていたが、それは、これまで日本人が培ってきた未来志向、節約と勤勉の美徳は今や消え、明日のために努力すること、偉くなることは拒否し、一切の責任からは逃がれたいと考えるものであろう。そのような現在享楽型・自己中心型の価値観で、今を楽しむことに夢中で、そこには自己実現の喜びはなく、不満と不安をつのらせる危うい人間像が浮かび上がって来るのではないだろうか。こういう記事を見るにつけ、我が息子も平均的な高校生だと思って、安心するが(安心することではないが)親としていつも願うことは、人に対する優しさ、何かに夢中になる熱心さ、物事に対して感動する心を失わず、若さの持つ可能性を信じて何事にもチャレンジしてほしいと思うものである。
 親は、いつの時代でも我が子に対してはどんな状況であれ、「最大・最強の応援団長」なのであることを、近頃の若者・子供たちは忘れないでいてほしい。

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《教職員のコーナー》 (平成12年11月)
熱く長い1日 〜テコンドー初段審査奮闘記〜 教諭 佐藤専太郎
 みなさんもご存じのことと思いますが、テコンドーは40年以上も前に朝鮮半島で生まれた韓国の国技で、古い歴史を持った武術の一種です。世界的に見ると競技人口は意外に多く、世界テコンドー連盟に加入している国は、100ヶ国を越え、3000万人以上の人たちが行っています。試合は、主に足技が中心になります。過去2回のオリンピックでの公開競技を経て、今年のシドニーオリンピックでは正式種目として行われたことは、みなさんの記憶にも新しいことと思います。オリンピック直前に放映されたテレビで韓国女性選手2名が、「今回のオリンピックでの成功の是非でテコンドーが再び公開競技になってしまう可能性があるので、選手になれたことはとても名誉であるが、責任の重さも感じる」と言っていました。彼らにとってはメダルを獲ることは当然のことであり、それ以上のことまで求められたオリンピックだったのでした。オリンピックでの試合は、残念ながらほとんど見ることは出来ませんでしたが、韓国の4選手が無事上位(金メダル3,銀メダル1)を占めることができて良かったと思います。日本ではまだまだマイナーなスポーツですが、岡本依子選手が銅メダルを獲得されて競技人口も増えるのではないかと思います。
 今年は、私にとってもテコンドーに関して大きな出来事がありました。テコンドーを始めてちょうど1年を過ぎた6月のある日のこと、館長に呼ばれて「初段を受けてみないか」と言われました。いつかはとは考えていましたが、こんなに早い時期になるとは思ってもいませんでした。
 私が通っている高麗体育館は、私と吉田先生以外は小学生だけで、練習内容も私がイメージしている武道とはかけ離れたものでしたし、試験内容のプンセッ(型)とキョルギ(競技)を考えても、韓国語の習得が遅々として進まない自分には、難しいのではないかと思いました。1週間ほど考えた末、妻の勧めもあり受験することに決めました。
 私がテコンドーを始めたきっかけは、昨年度まで釜山日本人学校にいらした佐藤英治先生のお誘いがあったからです。私自身、高校時代まで剣道をしていたので武道には関心があり、せっかく韓国に赴任したのだから何か韓国らしいものを身につけて帰国したいという思いで始めました。今思うと、音楽のセンスもなく、韓国語の習得も自信のなかった私にとっては、一番あっていたのではないかと思います。 試験日(8月27日予定だったのですが、急きょ変更となり1日早まってしまった)前日までソウル日本人学校での研修があったため、前日の夜ソウル駅11時発のセマウル号で釜山に帰ってきました。自宅に着いたのが、試験当日の朝4時近かったと思います。家に着くや否や床に着き、起床が朝8時。9時に道場に行き、型の練習を2時間行いました。昨夜からの疲れと真夏の暑さの中での練習でふらふらの状態で九徳運動場体育館へ向かいました。会場に着くと館長から試験まで時間があると聞かされたので、観覧席から三段以上の審査を見ていました。試合の凄さと型の美しさは、想像をはるかに超えたものでした。テコンドーの奥の深さを改めて知ることができたように思います。
 自分の番を待つこと5時間、やっと一般の部赤帯試験の時間になりました。ところが、待機場所に行ってみると、自分のグループは、すでに出た後でした。受け付けの方にお願いして、やっと2つ後のグループで行うことになったのですが、気持ちが動揺してしまい型のテストをどのようにやったのかさえ憶えていないほどでした。競技のテストでは、二人一組になって試合を行いました。私の相手は大学生でしたが、毎日練習を行っている者と週に1・2回程度しか練習しない者との差は歴然でした。速い蹴りを何発も受けて防戦一方で終わってしまったような気がします。試験を終えても疲労感と脱力感でしばらくボーとしていました。このようにして私にとって熱く長い一日が終わりました。10月のある日、練習中に館長から合格の結果が知らされました。てっきり駄目なものだと思っていたので、喜びいさんで帰宅して妻と娘に報告し、その日はささやかながら缶ビールとジュースで乾杯しました。韓国の地に来て1年半、日本では味わうことができない貴重な経験をさせてもらいました。
 かつて一つだった韓半島のテコンドー協会が、南北の分断によって二つの組織に分かれ、現在もそれぞれが独立した活動を行っています。日本においても二つのテコンドーの団体が存在しているのもこのような両国の事情からです。そんな状況でのシドニーオリンピック開会式での南北の同時入場は、テコンドーにとっても意義深いことだったと思います。私自身南北のテコンドー協会がひとつになれる日が来ることを願いつつこれからも日々の練習?に励んでいきたいと思います。

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《児童生徒のコーナー》 (平成12年11月)
ナザレ園を訪問して 小学部2年 R.K
 始めに、園長先生からお話がありました。ナザレ園には、七十三才から九十四才までのおばあさんがいることなどを聞いて、ぼくのおばあちゃんよりもっと年上なんだなあと思いました。
つぎに、れいはいどうで歌を歌いました。ぼくたちは、「夕やけ小やけ」と「海」を歌いました。いっしょに歌ってくれたおばあさんもいました。うれしかったです。
 それから、ふれあいタイムの時間になりました。ぼくは、あやとりのグループでした。たくさんのおばあさんに見てもらいました。みじかい時間だったから、すべてのおばあさんに見てもらうことができなかったので、ざんねんでした。
 最後に、記念さつえいをして、「さよなら」をしました。おばあさんたちは、ぼくたちのすがたが見えなくなるまで、手をふりながら「ほたるの光」を歌ってくれました。とてもうれしかったです。
 来年もまた行くから、それまで元気でいてほしいと思います。
ナザレ園 小学部3年 M.S
 れいはいどうのステージにならびました。
 歌を歌う時間になりました。ぼくたちが歌う歌は、「海」と「夕やけ小やけ」と全校で歌う「ふるさと」です。「うみはひろいな。」おばあさんたちは歌を知っていました。中にはがくふを見ていたおばあさんもいました。いっしょに歌ってくれました。だから、ちょっとわすれたところも思い出せました。おばあさんたちが手びょうしをしてくれました。かた手の使えないおばあさんは、つくえをたたいてまで手びょうしをしてくれました。
 ふれあいタイムで、ぼくは、けん玉をしました。けい君が、「大皿。」と言いました。ぼくたちは、「大皿。」と言い返して、わざを見せました。そうしたら、五こもたれさがっていました。乗ったのは、たったの二こでした。おばあさんたちが、「上手。」と、言ってくれました。ぼくはうれしくなりました。それからも色々わざを見せました。そうしたら、あるおばあさんが、「ちょっとかして。」と言ってくれたので、よろこんでかしてあげると、「あれ。あれ。あれ。」とわらいながらやっていました。おばあさんは、何回かするうちに「こら、できんわ。」と言いました。でも、ぼくは、はじめは全ぜんできなかったのに、皿に玉を当てるなんてすごいなあと思いました。だから、「練習したらできますよ。」と言ってあげました。おばあさんたちも子どものとき練習していたんだな、と思いました。
 しおりをあげました。しおりにぼくは、「おばあさん長生きしてね」と書きました。さしあげると、おばあさんは、「ありがとう」と言ってくれました。ぼくは、じっとしていられなくなりました。ぼくも、「ありがとう。」と言いました。そして、おばあさんとあく手をしました。とても手が温かかったです。ぼくは、おばあさんたちともうちょっと遊びたかったです。でも、おばあさんが来年もいっぱいれいはいどうに来てくれる事をしんじてわかれました。
 来年も絶対に休まずに、ナザレ園に行きたいです。
おばあさんの笑顔 小学部6年 Y.N
 ぼくは今年初めてナザレ園に行きました。事前の学習では、ビデオを見たり、崔さんのお話を聞いたりして、おばあさんたちがとてもたいへんだったことと、ナザレ園を作った金さんはとても偉い人だということが、強く心に残りました。
 ぼくは初め進行係でした。前に出たとき、おばあさんたちの顔がよく見えました。中には少し嫌そうな顔をしていたおばあさんもいましたが、ほとんどのおばあさんが笑っていてくれたから、とてもうれしかったです。テレビの画面で見た人もいたので、親しみが持ててうれしくなりました。進行のぼくの担当が終わって少しほっとしました。1年生から4年生までの歌が終わって、ぼくたち5・6年生が歌う番でした。練習の時、山本先生から、「中学部の手を借りよう。」と言われましたが、なんとかみんなでがんばりました。せっかく5・6年生だけで歌える歌があるのだから一生懸命歌いました。そうしたら、今まで少し嫌な顔をしていたおばあさんも、みんな拍手をしてくれたのでとてもうれしかったです。
 次に、おばあさんたちと遊ぶ「ふれあいタイム」が始まりました。ぼくが一番楽しみにしていたコーナーです。十河先生から教えてもらった、「かぶと」を折ってみんなにあげようと思いました。けれど三分間という時間は意外に短く、ぼくには一分間ぐらいに感じられました。とても全員のおばあさんにあげられなかったけれど、出来る範囲で限界までやれました。
 また今度ナザレ園に行くことができたら、もっとおばあさんたちを喜ばせてあげたいと思いました。
ナザレ園訪問 中学部2年 M.A
 今年のナザレ園訪問は特別でした。なぜかというと、プログラム作成をしたり、メッセージ発表をしたからです。また、ビデオを見たりしたのでおばあさんの人生を少し分かったような気がしました。
 ナザレ園訪問で、心に残ったことは、メッセージ発表・ミニコンサートもそうですが、ふれあいタイムだと思います。私は折り紙グループでしたが、このグループで良かったと思いました。折っている間おばあさんとお話ができるし、折り紙をプレゼントできるからです。私が折り紙をプレゼントしたおばあさんは五,六人ですが、日本の方も日本語を話せない韓国の方もおられました。私は器用ではないので、折り紙は下手ですが、私の作った物をおばあさんはうれしそうに触ってくれました。あるおばあさんは、ナザレ園に来て間もないそうですが、小さい頃遊べなかったそうです。でも、他の方と同じように私の作った物を喜んでくれ、涙ぐんでさえくれました。それを見て、ナザレ園には子どもが来ないのかな、それとも日本が懐かしいのかな、と思いました。どちらにしても、私はおばあさんを喜ばせてあげられて良かったです。おばあさんとの距離がぐんと近づいたような気がしました。また、来年もふれあいタイムを続けられるといいな、と思います。このふれあいタイムで心がけたことは、笑顔でおばあさんに話しかけることです。笑顔で話しかけたらおばあさんもリラックスして一緒に遊ぶことができました。来年も行けるかどうかはわかりませんが、行きたいなと思います。

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《 巻 頭 言 》 (平成12年12月)
達 成 感 在釜山日本国総領事館
  領事 田邉 弘芳
 私は、随分前からジョギングをしております。「絶対続けるぞ。」と心に誓ってやっては見たものの、2日、3日と経つうちに、「何故こんなしんどい事をしなければいけないんだろう。」という怠け癖がむくむくと顔を出してきて三日坊主の繰り返しでしたが、その内に、3キロ、5キロ、10キロと少しずつ距離を走れるようになりました。そうすると、三日坊主の苦労も忘れて市民マラソン大会に出たくなり、目標は『フルマラソン完走』等と勝手に決めてしまいました。途中で挫折しないようにするために同僚等周囲の人にマラソン大会に出ることを公言したりもしました。そうして、とにかく市民マラソン大会に参加しましたが、こんなに大変なものとは思いもよりませんでした。足が痙攣しそうになっているのにまだゴールは雲の彼方。「なぜこんな苦労をしないといけないんだろう。」等と参加したことを後悔しながら足を引きずりゴールを目指しました。結局、ゴールのある競技場に入るゲート(41.5キロ地点)で時間制限にかかり完走できなかったのが私の初マラソンでした。そのときの感想は、『折角ここまで苦労したのに達成できなかったという悔しさ』と『兎に角途中であきらめずに最後まで頑張ったという充実感』が複雑に入り混じった思いを持っていたように思います。現在は、遅くても途中で歩かないことを目標に達成感を味わうべく時々参加をしております。
 世の中には、「自分には出来る訳が無い。」と思うことが沢山ありますが、その中にはそう思い込んでいるだけで、『案ずるより生むが易し』というものがありそうです。
 今まで自分に出来る訳がないと思っていたことが苦労してできた。そのときには、きっとアトランタオリンピックのときの有森裕子さんのように『自分で自分を誉めてあげたい。』という気持ちで一杯になるでしょう。そして、やり遂げたという達成感、充実感で胸が熱くなり、『辛くても次も頑張ろう。』という気持ちが沸いてくると思います。
 ここ韓国では、何かをしようとしても言葉の問題、習慣の違い等様々な壁がありますが、苦労の先には、苦労した分だけの嬉しさがかえって来ることを少しでも多く子供達にも経験してもらいたいと思います。もし、やり遂げられなかったとしても何か困難なことに立ち向かおうとその出発点に立っただけでも充分に誉めてあげるだけの価値があります。著名な或る市民ランナーが、『フルマラソンに挑戦しようとスタート地点に立つ、それだけで充分に勇者である。』ということを言っていました。これはマラソンに限らず全てに通じると思います。日本人学校の子供達にもどんな小さな事でも良いから、様々なことで勇者になってもらえることを願い、できることならやり遂げた嬉しさを少しでも多く経験して頂けることを祈りつつペンを置かせていただきます。

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《教職員のコーナー》 (平成12年12月)
私のふるさと観 播州の秋祭りを通して 教諭 山本 みのり
 釜山という異国の地に来てはや8ヶ月になります。日本を離れると、今まで暮らしていた土地の何気なかったことが、いかに自分という人間を作るのに大切なものであったかを思い知らされることがあります。それが何かといえば、たとえば言葉であったり、習慣であったり、そこに暮らす人であったり、行事であったり…。
 私のふるさとは、兵庫県姫路市。地方でいえば、播州ということになります。姫路城と、言葉のあまり良くないので有名なところですが、あと一つ、忘れてはいけないものに祭りがあります。播州の秋祭りと言えば、知らない人はないほど有名なものと思いこんでいましたが、この釜山の地に来てそれはどうやら思い上がりだったことを知りました。皆さんはご存知でしょうか?
 私自身はといえば、子どもの頃はそれほど祭り好きではなかったのですが、最近は地域の祭りの日には、学校を休みこそしませんが、帰宅後すぐに祭りを見に行き、11時過ぎに帰宅するというようにちょっと変わってきました。歳を重ねるにつれ、祭りの見えない力に引き寄せられるとでも言うのでしょうか。
 播州の秋祭りは10月のはじめに始まり、半ばには灘のけんか祭りとして有名な松原八幡神社の祭りがあり、そして下旬には、私の住む網干の提灯祭りとして知られる魚吹(うすき)八幡神社の祭りがフィナーレを飾って終わります。
 どの祭りも、色とりどりのシデ棒に囲まれた豪華な屋台と締め込み姿のかつぎ手たちの勇壮さ、おなかに響く太鼓の音は変わりなく、どれも素晴らしいものです。街を車で走っていても、あちらでもこちらでも屋台通行のため、車を止められることもしばしばありますが、いつもは気の短い人々も、このときばかりはあきらめ顔で、屋台の美しさを楽しみます。
 2tを超えるような屋台は当然一人ではかつげません。そこで、村の人間全員が力を合わせる。そこには一瞬の隙もあってはいけません。命がかかっているのですから。それぞれの屋台に乗った乗り子が太鼓をたたき、それに合わせたかけ声で気持ちを合わせるのです。その屋台が何台か集まり、練り合わせをし、差し上げるのを見るのは素晴らしいものです。
 祭りの時には学校や会社を自主的に休み、男性は締め込み姿で屋台をかつぎ、女性はごちそう作りに余念がありません。
 私が以前勤めていた中学校は、灘の隣の地域で、やはり祭りが盛んで毛獅子が有名なところでした。10月になる頃、生徒たちは浮かれはじめ、掃除の時間になると、「よーいやさ」と机をかついで運ぶのです。中学生でこれですから、大人は言うまでもありません。実際、私の高校時代、灘の地域の同級生たちは全員学校を休んでいました。後で聞いたところによると、祭りの日に学校なんて行こうものなら、「あの家の子は勉強ばっかりして地域のことはどうでもええんか。」と言ってつきあいに入れてもらえなくなるということでした。それがいいか悪いかは別にして、祭りを大切にする思いが伝わってきます。「祭りのために生きている。」と言う人もいるくらいです。
 地元を離れてどこにいようと、正月や盆には帰らなくても祭りになると誰もが帰って来るというのもよく聞く話です。それほど地域のつながりが深いと言えるでしょう。何百年も前から変遷を重ねながら、こうやって守り続けられ、地域に根付いた祭りが近くにあることを、私はうれしく思っています。
 この韓国の地にもそういう類のものはないか、いろいろ勉強したいと思っていました。幸い、学校行事や釜山の時間を通じて、農楽やサムルノリを目にし、文化的な体験をする機会に恵まれました。そして、この国の祭りや文化にも形を変えながら受け継がれた素晴らしいものがあると感心させられました。次はぜひ自分自身が、この国の文化を学び、身につける機会をつくれないものかと考えています。
 日本に帰ったとき、私を変わらず迎えてくれるであろう祭りの太鼓の音を思いながら、釜山の秋は過ぎました。

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《児童生徒のコーナー》 (平成12年12月)
三校こうりゅうかいがあったよ 小学部1年 S.F
 先生、あのね。
 きょう、三校こうりゅうかいのおりがみコーナーで、かにをおるのがたいへんで、とくにさいごのほうにはさみをつかうのですごくむずかしかったです。
 人げんすごろくでは、えいごでいうときにたいへんでむずかしかったけど、たのしかったです。たとえば、六が「スィックス」って、ちゃんとわかんなかったから、口がとまってしまいました。
 しゅうじをするのをわすれちゃいました。
「したらよかったなあ。」
みんな喜んでくれた交流会 小学部4年 H.T
「・・・水は清き ふるさとぉ。」
「ふるさと」の歌が歌い終わりました。次は、銀河大だいこです。と中で少し間ちがえてしまいましたが、みんなに笑われないでよかったです。
 次は、インター校の発表です。一つだけ私の知っている歌を歌っていました。それは、「ゆかいな牧場」という歌です。わざわざ動物に変そうして出てきたので楽しかったです。また、オリンピックをスローモーションで表現していたのが、とてもうまくておもしろかったです。
 最後の発表は、民楽初等学校の人達です。最初のテコンドーの発表は、とってもかっこよくて楽しかったです。次のサムルノリは、よくこんな大きな音が出るなと思いながら聞いていました。
 さあ、三校の発表が終わって、とうとう折り紙を教える時になりました。「がんばるぞ。」と気合を入れて最初のお客さんに取りかかりました。最初の子は、民楽小の子でした。サインをもらい、いっしょに折り紙を折っていきます。
「タラハセヨ。」あとは無言。できそうもなかったら、手伝ってあげるだけ。一度は他の言葉をつかってみたけど、声が小さい。なんとか出来上がり、一人目は終わりました。いっしょにやっていた子がピカチュウを作り終わり、
「ピカチュウ。ピカチュウ。」なんてさわいで喜んでくれるなんて、思いもしませんでした。インター校の子にも、「ターンオーバー。カピィミー。」あとは、無言の教え方だったのに、ほとんどの子が喜んでくれました。みんなが喜んでくれてよかったなぁ、と思っています。シーンとして終わっちゃったら、教えたって意味がないと感じますが、喜んでくれたらなんだか良かったと思えるからです。
 初めての三校交流会、とっても楽しかったです。
楽しかった三校交流会 小学部5年 Y.T
 インターナショナルスクールの人たちが、オリンピックの様子をスローモーションで再現していたのが、とってもおもしろかったです。私はあまりオリンピックの全部の競技を知りませんが、この演技はとてもわかりやすかったです。いろいろと動作や表情も工夫していて、楽しかったです。そして、日本人学校の発表に比べると、長い時間の発表でした。私は、「どうやってあんなにおぼえたんだろう。」と感心して見ていました。
 民樂初等学校の発表は、特にテコンドーを取り入れたダンスが、かっこよかったです。みんなの動きがそろっていて、足や手の動きが早かったです。音楽の演奏は韓国独特のものでした。私が知っている楽器は「チャング」しかありません。去年の学習発表会でもたたいたので、たたき方は知っていますが、「さすが、私とは違う!」ということがよく分かりました。たたき方も早く、音もとても大きく響いていたからです。ほかにもいろいろな楽器がありました。最初は大きな音に驚きましたが、慣れてくると、すごく気持ちよく聞こえました。
 後半は、日本の遊びを紹介するコーナーです。休憩時間に担当の「剣玉」を練習しながら、どきどきしていました。「お客さんが来たら、どうやって説明しよう。」そう思うと緊張が止まりませんでした。コーナーが始まっても、最初は誰も来なくて、少し落ち込みましたが、時間がたつと、たくさんの人が来てくれました。最初に来た人が、「剣玉」を手にしたのに気がつきませんでした。十河先生が、いろいろと教えているのを見て、だんだん教え方が分かってきました。私が教えた人は三人でしたが、私は満足しています。来年の三校交流会が楽しみです。
書道コーナー 中学部1年 Y.S
 11月17日、僕はこの日をあまり楽しみにはしてはいませんでした。韓国語の授業や、英語の授業での勉強の成果を出す絶好のチャンスでしたが、練習した言葉が通じるかどうか不安だったからです。こんなことを考えているうちに、開会式が始まりました。釜山日本人学校、ISP、民楽初等学校の発表が終わり、日本の文化を知ってもらうコーナーが始まりました。
 僕と中学3年生の人が担当した書道コーナーは、最初全然人が来ませんでした。不思議に思って廊下の方へ目を向けると、みんなが着物コーナーへ入っていくではありませんか。着物コーナーに負けじと必死になって呼んでいるとやっと2人の男の子が来てくれました。その2人の男の子は、何枚も何枚も書いていました。名前は、廉くんと基行くんです。「日本人学校の人やないけ〜。」と思いながら呼んでいると、その2人が来たとたんどんどん人が集まってきました。たくさんの民楽やISPの人達に身振り手振りをしながら教えました。こうして、男の子二人のおかげで僕の三校交流会は無事に終わりました。

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《 巻 頭 言 》 (平成12年2学期末)
韓国で過ごして
 娘が1年生で入学した中学部を卒業、家族が日本に戻ってからの単身赴任生活も間もなく3年。思いがけず「広安里」へ原稿のお誘いを受けた機会に釜山へ来てから日本と韓国を比べ感じたり考えさせられたことをまとまらぬままですが私なりに書こうと思います。
 日本を離れ、韓国に住むようになって数年、この間に日本では従来無かったような犯罪が16、7才の少年によって次々と起こされている。これは、同世代の子を持つ親として心配せざるを得ない。これには今の日本の元気の無さにひとつ、原因があるのではないだろうか。バブルがはじけて以来、今まで国を支えて来た政治、経済システムへの信頼感や、経済成長という目標への期待感が失われつつある。このために、これからどの様にして歩んで行けば良いのか、多くの人が迷っているいるのではないだろうか。
 大人が夢を無くしたことが、子供たちから元気を失わせていないだろうか。
 近年、米国のハーバード、スタンフォードといった有名大学に入る優秀な学生に日本からの学生はめっきり減っていしまい、むしろ多いのは韓国、台湾などアジア諸国の子弟だとのことだ。
 たしかに、ここ韓国で見る若い人は度重なる経済危機にも関らず元気だ。受験競争は日本以上に厳しく、大学入試は1度でほぼ運命が決ってしまう。毎日夜遅くまでハグォン(塾)で勉強している。会社の中の若い人は上昇志向だ。代理、課長クラスでもベンチャー事業に転ずる者が珍しくない。
 この元気のもとは一体何だろうか。南北対立が続いていることによる統一への希望、衝突への不安などによる緊張感が背景にあるように思われる。非武装地帯に配置されたというある課長の話は、最近のヒット映画JSAさながらだ。零下20度の夜空の下、地雷原を進む時は前に行く者の足跡を辿り、一人のときは母を想い涙したという。
 島国日本は、どうしても外の世界に鈍感なところがある。生きた人を通して外国を知る機会は少ない。私自身、日本にいたとき北朝鮮と韓国の国境は単に有るということを知っているだけだった。今は韓国の若者が2年半の青春を犠牲にした上の日本の平和という面もあると思うようになった。
 韓国という近いが異なる面も多い外国に来たことは、自分と日本を見直す良い機会になったと思う。違いを見ることで自分(日本)はどの様な特徴があるのか、何ができるのか、何をすべきなのか、どの様な方向に進むのがよいのかなどを日本にいた時よりは考えるようになったと思う。国の外で多くの人が様々な経験を積み重ねる中から、日本人とその子供達の未来に希望を探せるのではないだろうか。

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《教職員のコーナー》 (平成12年2学期末)
いま 思えば… 教諭 吉田 隆雄
 「ふざけんな。こんなの持っていけるかよ。」
 テーブルの上に置いてある木箱を見たとき、そうつぶやいた。その木箱というのは、習字道具を入れるいわゆるかばんである。現在、小学生が持っているそのての類のものは、かばんではなく、バックと呼ぶにふさわしい形をしている。軽くするために、脇がメッシュになっているもの(これは、墨がたれるのが欠点ではあるが…)も登場している時代である。
 しかし、わたしが小学3年生になったときに、目の前に現れたのは、デパートや文具店に並んでいる、合成皮革(ビニールの方がふさわしいかも)でつくられたものではなく、親父が作った木でできたかばんであった。それは、上蓋式で、ちょうつがいを利用して開閉ができ、ふたを閉めて立てても開かないように引っかけるような金属製のフックが付けられていた。中はというと、筆巻き・文鎮を入れる側と硯や墨などを入れる側と、2つに仕切られていた。わかりやすくいうと、道具箱のような仕組みになっていたのである。おまけに、取っ手は、引き出しや簡単なドアに付ける金属製のものが銀色にキラリと光っていた。
 当時、8才の小学生としては、想像を絶するほどにショックを受けた覚えがある。そのとき、そばにいたおふくろが、なんだかんだとなだめるようなことを言っていたが、ほとんど耳に入らなかった。
 いよいよ習字(毛筆)の授業が始まるといった朝には、むき出しのまま習字道具を提げていくのが嫌で、わざわざ別の袋(手提げ)の中に入れて登校した。習字の時間が始まったとき、おそるおそる自分の道具を袋から出して、机の上に置いた。その瞬間、わたしの周りのクラスメートの視線が、机上に注がれた。みんな、
「いったいこれは何だろう?」
と不思議そうな顔をしていたが、言葉に出すものはなかった。何人かの家では、わたしの習字道具のことが、夕食の話題にのぼったようである。(後日おふくろが教えてくれた。)
 わたしの家は、東京の池袋の西側にあるのだが、耳を疑うかもしれないが、わたしが生まれる前はもちろんのこと、いまだに風呂は薪でたいている。ガスも電気もある現代においては、奇異というよりほかに言い表しようがない。なおかつ、わたしが高校に入る頃までは、米もかまどで炊いていたのである。
 「何でまた?」
と思われる方も多いと思うが、別に好きでそうしてきたわけではないと思う。どちらがいいかと問われれば、より便利で楽な方を選択するのではないだろうか。しかし、わが家では、親父の職業柄、選択肢がなかったと言っても過言ではない。うちの親父の仕事は、建築業(工務店経営)、くだけた言い方をすれば大工なのである。新築、改築があれば、もれなく廃材が手に入るのである。また、家の庭の木も2年に一度は手入れをするので、それらを燃料として、有効(?)に活用していたのである。
 高校生ぐらいまで、大人に風呂や釜のことなどを話すと、
「いいわねえ。」
「おいしく炊けるのよね。」
といった感想が返ってきたものだが、当事者としては、
「腰がいたい。」
と恒例の薪割りの後は、ぐるぐる腰を回して、痛みを和らげる体操をしたものである。
 そんな環境に育ったので、田舎以上の素朴な経験を何の意識することもなく積んできた。庭に行けば、木のかけらなどがゴロゴロしているので、不器用ながらもげんのうと釘で、怪しげなロボットなどを作ったり、カブトムシを飼うために、かんなくずを集めたりなど、自然に遊ぶことができた。その年齢に応じ、反発することが多かったのだが、今にして思えば、銭では買えない経験だったように思う。
 さて、例の木箱であるが、ここ釜山に来るまでは1年に一度、開く機会があった。高校に入ってからは、芸術で書写を選択しなかったので、学校で使うことはなかった。しかし、小学校3年から大学3年まで、毛筆で年賀状を書いていたので、この時期になると、たんすの上から下ろしていた。大学4年から釜山に来るまでの間は、木版画(多色刷り)の墨板に墨を塗るために、木箱を開いていた。そう、もう30年近く付き合っていることになるのである。

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《児童生徒のコーナー》 (平成12年2学期末)
三校こうりゅう会 小学部2年 T.M
 三校こうりゅう会でインターの子やみんらくの子たちが来ました。さいしょに、日本人学校で「ふるさと」を歌って、それから、「ぎんが大だいこ」をおどりました。一つミスがありました。でも、がんばりました。
 つぎに、インターの子たちのおもしろい歌がありました。みんらくの子たちは、テコンドーのかっこうをして、出てきました。そしたら、音楽がなりだして、テコンドーをはじめました。かっこよかったです。
 すごろくのところにおきゃくを集めるのに
「ボードゲーム カモン」
とか言って、3人つれて行きました。それで、れんくんとしゅうじに行きました。しゅうじがおわってきものに行きました。そして、しゃしんをとってもらいました。それから、30分たって、一年生とこうたいしました。ぼくがさいころをふると3が出て、みどりのぼうしの子がアウトになってしまいました。ぼくは、
「ソーリー」
と言いました。
 それから、おみおくりをしました。楽しかったです。
自分とのたたかい  〜2学期を振り返って〜 小学部5年 T.Y
 僕は2学期を振り返ってみたら、宿題忘れが多い2学期でした。1学期よりは少しましになりましたが、やっぱりあまり変わっていません。12月ごろには、かなり忘れ物は減りましたが、なくなったわけではありません。これからはあまり忘れ物をしないようにしていきたいです。
 勉強の面では、ノートをもっとていねいに書きたいと思います。いつもはノートの字がきたないので、後から見直してもなかなか読めません。自分で書いた字なのに、情けなくなってきます。また漢字もしっかりと覚えて、使っていきたいと思います。
 さらに来年は6年生になります。小学部の最上級生です。これからは、低学年のことを見てあげられるようにしたいです。執行部など、学校の中心になって活動しなければならないときもあると思います。今のうちに、6年生や中学部の活躍している様子をよく見ておいて、自分の力にしていきたいです。
 今はあまりゲームをしていませんが、プレイステーションが新しく手に入ったので、またゲームの時間が増えていくかもしれません。これからはゲーム好きな僕とがんばろうと思っている僕との対決です。自分とのたたかいに勝ち、ゲームの時間を減らしていきたいです。
 来年は、自分のことも自分でしっかりとでき、さらに低学年の子や学校のためにいろいろと役に立てるようになりたいです。
3回目の学習発表会 中学部2年 K.T
 今年の学習発表会は僕にとって大変貴重な体験となりました。
 まず、例年と違うことはこの僕が生徒会長だということでした。この仕事の大変さは言いようがありませんでした。放送による司会進行。そして、特に頭を悩ませたのが終わりの言葉でした。何故かというと、学習発表会当日になっても、まだ覚えきれていなかったためで、発表会が早く来て欲しくない要因でもありました。
 当日、僕が一番楽しみにしていたのは、出演者の自分達もまだ見ていない中学部の映画「風波」と先生方の合奏「マイウェイ」でした。
 そして、来てほしいけど来ないでほしい釜山日本人学校での最後の学習発表会当日がやって来ました。今日僕がしなければならないことは、アナウンス、音楽の「大脱走マーチ」と「そのままの君で」、終わりの言葉、そして英語のスピーチでした。
 アナウンスの方はアドリブも楽々することができました。音楽も大きな間違いもせずにできました。
 そして、問題は英語のスピーチ「共生園との交流」でした。英語は僕のもっとも苦手とする教科で、夏休みからスピーチの準備をして、何十回も練習していました。しかし、僕は全く自分自身の英語に自信がありませんでした。しかし、なんだかんだ言いながらもスピーチをやり終えることができました。スピーチを全てやり終えた時の気分は最高でした。そして、最後の出番、終わりの言葉になりました。その時もまだ覚えられてはいませんでしたが、その時だけはなんとか言いたいことを言えたと思います。全てが終わった時とてもほっとしました。
 僕は釜山日本人学校の学習発表会で、初めて生徒会長をして、みんなと力を合わせて一生懸命やれたと思います。この経験を日本に帰っても生かしていきたいです。
生徒会長になって得たもの 中学部3年 Y.S
 僕は、今年度の前期委員会期間中を生徒会長として過ごしました。正直に言うと、この仕事は乗り気ではありませんでした。なぜならば人前に出ることが多く、なによりも生徒の代表という責任重大な仕事だからです。
しかし、こんな気持ちで臨んだ生徒会長も、あいさつが上手になったり、人前で話すことに対して緊張しなくなるなど良かったことが多かったです。もし、今でも日本の中学校に在籍していたら、生徒会長という経験などすることができなかったと思います。そう考えると、嫌だ嫌だと思っていた生徒会長も、みんなのリーダーとして、先頭に立つチャンスを与えてくれたのだと今では思うようになりました。
僕は、後期の委員会で、図書生活委員会の副委員長を務めています。委員長という立場から一歩引いてみると、いろいろなことが見えてきます。これからも、副委員長として、委員長をサポートし、みんながよりよい学校生活を送れるように、一生懸命がんばります。

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《 巻 頭 言 》 (平成13年1月)
釜山日本人学校における不易と流行 教頭  冨田 直人
 学校にはどんな学校でも不易(ずっと変わらないこと)と流行(新しさを求めたえず変化していくこと)があります。我が釜山日本人学校にも、ずっと変わらない部分と年ごとに変化していくことがあります。日本人学校の不易の部分とは何か、最今の流行は何か、創立25周年を機に考えてみました。
 本校25年の歴史を拾ってみますと、本校での不易の部分は、@ 日本の教育を行う場であること。設立のコンセプトであり、これが無ければ日本人学校とは言えません。絶対的な不易の部分です。A 人数がずっと30名前後と小規模ですが安定していること。(ピークは2回、50人を越えたことがあります。反対に20人を下回ったことは、開校当初を除けばありません。)B アットホームな学校の雰囲気。私のいた3年間はもとより、昔の作文などをみてもこの学校の独特の雰囲気は、代々自然に受け継がれているようです。こういうものを“校風”というのでしょう。C 学校の行事 入学式や卒業式のような儀式はどこの学校にもあり当然ですが、本校の場合日本人会との共催である運動会が特筆すべきものです。少人数であることも一つの要因として、日本人会と学校が共催する形が一つの伝統になっています。この運動会は開校以来ずっと続いている行事です。
 では、流行の部分はどうでしょう。まず、教育の中身の変化があります。時代とともに学校の教育内容は少しずつ変わってきました。学校週五日制の導入、2002年からの大幅な教育改革に伴う総合的な学習の時間の創設、ゆとりある学校教育のための授業時数の削減などがあげられます。この3年間でみても、クラブの時間を廃止して釜山の時間を創設したこと。キャンプと体験旅行をそれぞれ小学部、中学部に分けて実施するようになったこと。バザーを校庭でやるようになり、韓国人にも門戸を開放する方向になってきたこと。現地校との交流が、インター校、民樂初等学校というこれまでの枠から、養雲中、大邱南中などと単発ではあってもこれまで交流したことのない学校が増えてきたこと。ナザレ園訪問が復活したことや木浦共生園との交流などの新機軸が生まれたこと、などが思い出されます。我々派遣教員は3年間の任期で交代するため、このサイクルで学校の指導の中身も少しずつ変化することは否めない事実です。
 学校の内的な事情の他に、社会的な変化があります。ご存じの通り、ここ数年で韓国社会の日本に対する見方が劇的に変化しました。サッカーのワールドカップ共催に端を発して、対日文化開放政策と日韓融和の時代の到来が、学校の指導の中身を変化させる背景になっています。昔はやりたくてもできなかった現地校との交流や、見学・訪問の学習などをどんどん増やすことができるようになりました。現在の釜山日本人学校の子供たちは、そういう社会的な追い風を受けて、たいへん恵まれていると思います。
 未来に目を向けましょう。そこでは日韓の関係がさらに進み、教育改革が実施され、日本人学校も大きく変わっているはずです。毎週土曜日と日曜日は学校が休みになり、その間子供たちは自分で興味や関心のあることを見つけ、探求して、自分で勉強していくようになります。生活の中での学校の位置づけも変わってくるでしょう。しかしその中でも、先ほど述べた不易の部分はきっと変わらず、釜山日本人学校らしさは綿々と受け継がれていくだろうと思います。本校が末永く、これまで以上に発展していくことを祈念しつつ、筆をおくことにします。

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《教職員のコーナー》 (平成13年1月)
みたまんまあいしな  教諭  藤井 良一
 アナグラムという言葉遊びがありますね。日本語にすると何て言えばいいんだろ?「仮名並べ替え意味違え遊び」てなところでしょうか。ちゃんとした訳語もあるとは思いますが、とりあえず例で説明。
「田中角栄→内閣変えた」ひらがなで書くと
「たなかかくえい→ないかくかえた」
「明石家サンマ→甘やかしさん」ひらがなで
「あかしやさんま→あまやかしさん」
もうおわかりですね。それじゃ、アナグラムで遊びましょう。おつき合いのほどを。(ほんとは濁点つけるのも取るのもだめらしいんですが、難しいのでいいかげんにしています。)無許可で名前を使わせていただいた諸先生、最後の原稿ということでどうかご勘弁を。
 さて、とっぱなは私……。
☆ 藤井良一(ふじいりょういち)
 いいちりょうぶじ(いい治療無事)1年前、胃をわずらうも、金先生のおかげで完治、感謝です。
 いちじりようふい(一時利用 ふい)協栄生命に少しだけはらってました。 とほほ
 じぶりちょういい(ジブリ超いい!)最近、韓国でもナウシカが公開されました。日本文化開放、進んでほしいです。
 いいちょうり じふ(いい調理 自負)弁当しっかり食べるのよbyおかあさん
ぶりちょうしいい(ブリ!調子いい〜)失礼!しました。

☆ 菊田藤明(きくたふじあき)校長先生
あきぶじきたく(秋 無事 帰宅)昨秋、校長会帰路悪天候で飛行機飛ばず。学習発表会にはセーフで一同ホッ

☆ 冨田直人(とみたなおと)教頭先生
なみだとおと(涙と音)涙と鼻水すする音、卒業式ですね。
なみとおとだ(波と音だ)三年間、毎日見てきた広安里とも…

☆ 黒山寛司(くろやまかんじ)先生
やまじかんろく(山地勘六 明治の勲臣)
やまじくろかん(山路クロカン)クロカン→クロスカントリーの略。
くまじかんやろ(くま 時間やろ!)横町のご隠居より。
くろやんまじか(黒やん マジか?)もちろんマジです。
やんぐまじろか(ヤング 混じろか)服装も若々しいし、十分混じれます。
ろくじまんがや(六時!漫画や)チャンネル争い勃発か?
ろまんじかくや(浪漫自覚や)教員の心構え、もちろん浪漫=教育
  !山路勘六・明治の勲臣→うそです。

☆ 渡島靖隆先生(わたしまやすたか)先生
わたしかますやだ(私、カマスやだ!)確かにどう猛な顔つきしてます。
わたがしまずやだ(綿菓子 まず〜 ヤダ)韓国の綿菓子も日本と同じ味でした。
わたたすまやかし(わた足す まやかし)黒いダウンコートがよくお似合い。でも綿混じっていませんか?
かやたたまずしわ(蚊帳たたまず しわ)大切にしてください。今年も多分おせわになるでしょう。

☆ 小松崎直美(こまつざきなおみ)先生
なおこまつみさき(なお、子待つ岬)南北離散家族再会、でもまだ会えない親子も数多く

☆ 十河聖司(そごうせいじ)先生
せいじごうそ(政治語うそ)政治家のモラルが問われています。
いごそうじせ(以後 掃除せ)サッカーした後ファミリー清掃です。

☆ 吉田隆雄(よしだたかお)先生
かおだしたよ(顔、出したよ)ほんとにあちこち顔を出して、この方、タウンウォッチの達人です。

☆ 山本みのり(やまもとみのり)先生
のやまもみどり(野山も緑)これ、きれいです。
やまとのりもみ(大和海苔 揉み)なんと言っても海苔は韓国

☆ 佐藤専太郎(さとうせんたろう)先生
うろうせんたとさ(売ろうセンターとさ)民楽洞のフェーセンタ、足を踏み入れるとアジュマの視線と売る気迫が一斉に、それで売ろうセンターとか、くるしい〜
とうさんせたろう(父さん背たろう)戯れに父を背負いてそのあまり重きう めいて3歩後退 あゆみ  
うたうさろんせと(歌うサロン瀬戸)日本人学校の伝統を守ってレパートリーを広げてください。

 朴さん文さん、難しすぎました。児童生徒のみなさん、人数が多すぎました。で、今回は登場してもらえません。ごめんなさい。(次回は…?もうないがな!)
 ということで、最後のアナグラム。

いまあみましたなん(今、網、真下なん?)
 いまなんあみました(今 南ア、見ました)
 みんなまあましいた(みんな まあ マシイッタ)
 あんいなまましたみ(安易なまま下見)
 みたまんまあいしな(見たまんま愛しな)
みんなまたあいまし ! ! ! ! ! ! !!!!!

しまった、2文字足りない。おーい長谷川君ちょっと名前貸して〜。それじゃやり直し

 みたまんまあいしな(見たまんま愛しな)
みんなまたあいましよう

 みなさん、これからもこの国と日本人学校を愛してください。またいつかどこかでお会いしましょう…………………。

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《児童生徒のコーナー》 (平成13年1月)
三学きのもくひょう 小学部1年 A.S
 三学きには、しょしゃをがんばりたいとおもいます。じをていねいにかきたいからです。
 さんすうのけいさんカードもはやくできるようになりたいです。
しんねんおたのしみかいのこと 小学部1年 E.Y
 きょうのジェスチャーゲームは、まねをするのがむずかしかったし、それにちょっとはずかしかったけど、がんばりました。
 そして、かるたとりでは4まいぐらいしかとれませんでした。ちょっとくやしかったです。
 じぶんでついたおもちもおいしかったし、しんねんおたのしみかいがたのしくて、らっきーでした。
けがのグラフから 小学部4年 Y.H
 学校で「けがのグラフ」を作った。ぼくは、運動場のけがの次に、教室でのけがが多いことにおどろいた。
 以前、体育の時間にサッカーをしていて、太郎君がけがをした。体育は、サッカーのようにはげしい運動もするからけがが多い。図工の時間には、ちょうこく刀などで、けがをすることがある。
 でも、それだけではない。朝、学校に来るときにけがをした人もいた。ぼくは、そのけががどんなけがかを予想してみた。そして、すりきずだと考えた。すりきずではなく、転んだかもしれないが、朝はあまりけがをしないはずなのに、けがをした人が多いことにおどろいた。
 休み時間のけがもけっこう多いことに気がついた。例えば、雨の日にふざけていて転んだ人がいた。ぼくは、雨の日は特にふざけない方がいいと思う。なぜかというと、雨の日はろう下やこう堂のゆかなどがよくすべってけがをすることがあるかもしれないからだ。
 このグラフを作って、どんなときのけがが多いか分かってよかったと思う。こんどからは、いくら遊びたくても、雨の日にろう下や教室などでふざけたりしないようにがんばろうと思う。
3学期の目標 小学部5年 K.T
 ぼくが3学期にがんばるのは国語と算数です。漢字や単位量あたりの計算が苦手だったので、時にがんばりたいと思います。計算練習もして、完璧にできるようにしたいです。
 生活面では、運動をよくしたいと思います。そして、早寝早起きをして、遅刻を0にできる
ようにがんばります。ほかにも、けんかなども少なくしたいと思います。
 とにかく健康で、充実した3学期にしたいと思います。
釜山に来てからの経験 中学部2年 K.T
 僕がここ韓国、釜山に来たのは2年10ヶ月前。僕はここに来ることになんの抵抗もなく、むしろ来るときは新しいことが待っているかも知れないと期待を抱いていました。しかし、最初の1年間は新たな体験とはあまり縁がありませんでした。ただ、そんな中でもここ韓国でしかできない体験ができました。それはナザレ園訪問です。この訪問は今まで接したことのないお年を召された方との交流でした。おばあさん方の笑顔と明るさを見ていると、何となく身近に感じられました。
 そして中学生になり、6年生の時とは比べられないくらいたくさん体験ができました。特に体験旅行。共生園ではジェスチャーや、片言の韓国語、日本語を使い、とにかく相手の言っていることを分かろう、分かってもらおうという思いで話をすると、何となく通じていたように思います。
 そして、今は、この体験旅行でのちょっとした国際交流を生かしています。今まで韓国人に道などを聞かれても不安が僕を襲い、避けていましたが、今は聞かれたらなるべく分かろうとし、ジェスチャーなどを混ぜて答えています。
 また、共生園での交流を通して、人を助けるという事に国には関係ない、助けよう、何かしてあげよう、役に立とうというその気持ち、心が大切なんだと感じました。僕は今まで孤児と聞くと反射的に避けていたように思います。しかし、たとえ孤児でも僕と同じ人間、地球人なんだ、ただちょっと生まれた環境が違うだけでみんな一緒なんだということを感じることができました。
 他には、日本では絶対やらない委員会の委員長、運動会の応援団長をここではやりました。これは良い経験になったし、僕自身の自信にも繋がりました。
 とにかく予想通りたくさんの新しい経験ができた、充実した2年10ヶ月でした。

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《 巻 頭 言 》 (平成13年2月)

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《教職員のコーナー》 (平成13年2月)

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《児童生徒のコーナー》 (平成13年2月)

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